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> 震災108 
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 東日本大震災を写真で振り返るコーナー。あのできごとを忘れないために。

2018.9.22

存在感

(岩手県沿岸部)

By S.K

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【2012年9月撮影】

 ある日、沿岸部でたまたま通りかかった
 あたりには、人気(ひとけ)も音も感じられない。だが、潮風にパタパタと音を立てへんぽんと翻る一条の吹流しに「人」の存在を感じた。


 今回の震災は「過疎地域」とか「人口密度が低い」というけれど、たしかにここに人はいる、と思った静かな昼下がり。


 あれから熊本地震、大阪地震、北海道胆振東部地震と携帯の緊急速報は鳴るけれど、その音の向こうに生きている「人」はいるはず、と思い起こす写真。




2018.8.15

お盆

(宮城県沿岸部)

By S.K

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【2012年8月撮影】

 夏、お盆。草が伸びる時期。住宅の土台だけが残る津波の被災地域で、草がだいぶ生い茂ってきた。


 この近くではないが、沿岸部では流されてしまった墓地の墓石をまだ直すことができず、そのまま迎えざるをえない姿も見たお盆。日常を変わらず迎えられることの意味を考えさせられた。


2018.7.17

折れた柱

(岩手県)

By S.K

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【2011年6月撮影】

 あちこちで、電信柱が引き折られている光景に遭遇した。


 想像を絶する光景。



2018.7.8



(宮城県石巻市)

By S.K

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【2011年6月撮影】

 沿岸部の炊き出し先へ向かっていた時に見た光景。海も空もとにかく青く、綺麗の一言だった。


 しかし、折れた木と絡みついた漁具が、ここまで震災の津波が来たことを教えている。自然の風景が、見えている姿の時ばかりではないことを教えられた。



2018.5.20

対岸

(宮城県石巻市)

By S.K

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【2011年5月撮影】

 石巻市中心部より若干北へ。あの大川小学校の前を流れる北上川の対岸、さらに海側。しかし、報道で目に止まる機会は。


 吉浜小学校。東北の五月、川面を吹き抜ける風はことのほか強く、事情を聞くことができそうな地元の方の影はなかった。


 北上して避難所を訊ねていたが、この辺りで日が暮れた。距離を感じる場所でもあった。



2018.5.6

道端

(宮城県牡鹿半島沿岸)

By S.K

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【2011年5月撮影】

 沿岸部、それも入り組んだ地形の続く半島部では、道路の脇はまだまだ混沌としていた光景が見られた。



2018.4.22

震災翌々月に見た言葉…③

(宮城県石巻市)

By S.K

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【2011年5月撮影】

 先の言葉が掲げられていた石巻市にある日和山。そこから見えた街の光景の続き。中央は日和大橋。眼下にあった住宅や工場の街並みが皆消えていた。



2018.4.18

震災翌々月に見た言葉…②

(宮城県石巻市)

By S.K

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【2011年5月撮影】

 前回掲載した言葉が掲げられていた日和山。そこからはその時こんな光景が見えていた。



2018.4.15

震災翌々月に見た言葉…①

(宮城県石巻市)

By S.K

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【2011年5月撮影】

 石巻市沿岸部を見下ろす高台の日和山。急な階段だが、すべて波に飲まれた山の下の街並みから、登って助かったという話も聞く場所。そこにいつからか掲げられていた言葉。


 この方はどんな気持ちで、これを書かれたのだったろうか。



2018.4.6

津波のもたらしたもの

(宮城県仙台市)

By S.K

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【2011年4月撮影】

 津波が襲来したお寺さんの清掃作業がある、と聞いて向かった先で目にした光景ただ絶句。



2018.3.10

立ちあがる街…③

(福島県内沿岸部各地)

By S.K

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【2018年撮影】

 震災当初、テレビや新聞で報道された避難所には支援や物資が集まり、その近くであっても、あまり報道されない場所では、物資も関心も不足するという現象があったようなことを思い返す。報道されることの反対には、報道されない日常もあることを、つい忘れがちだということを生で見て思い返す。


 「浄土真宗大谷派のうち東北地方の太平洋側、岩手・宮城・福島を仙台教区という」と、一口に定義を言っても、震災の被害・不安は津波によるものだけではなく、『放射性物質』という、海を越え、山を越え、壁を越えてくるものによっても惹きおこされている。


 福島県沿岸部の街は、ある街は、交通機関の移設と共に中心街を移し、新たに街づくりを進めている。ある街は、既存の街並みのなかで再興を図っている。


 生まれ育った地が、一口に「被災地」という言葉で紹介されるようになり、以来7年。歩んだ道は様々であり、人のはからいが及んだことも、また及ばないこともあったのだと改めて感じさせられる気がする7年。どうだったのだろうか?。





 今日は3月10日。1945(昭和20)年には東京大空襲のあった日でもあります。そして、あすは3月11日。




 2011年のあれから、7年目の今日を迎えます。




 生物の営みは変わらず、今年も花が咲き始めています。

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 何を無くし、何に気づいたのか、そして何がそのままなのだろうか?。あの日を憶念しつつ考えてみたいと思います。



 明日は各寺院で東日本大震災追弔「勿忘の鐘」法要が、真宗大谷派の全国各地の寺院で行われます。どうぞお気軽にご参加下さい。詳細はこちらから



お知らせ





【 おまけ 】
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 おっと!
 彼(イノシシ?)もまたその影響を受けているともがらなのかもしれない。




2018.3.9

立ちあがる街…②

(宮城県女川町)

By S.K

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【2018年撮影】

 山に囲まれて平地がない女川町の中心部では、わずかな平地のかさ上げと背後の山を切り開くことで場所を作った。









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 そして今も記憶をとどめている場所。




2018.3.8

立ちあがる街…①

(岩手県陸前高田市)

By S.K

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【2018年撮影】

 街中をかさ上げしての再建を進めている陸前高田市。土を盛り上げた後に、新たな街並みが立ちはじめている。








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 一方で、その想像を絶する工事の姿を教えてくれるかのような光景も、今もある。




2018.2.24

閖上の日和山@2012

(宮城県名取市)

By S.K

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【2012年8月撮影】

 前回掲載した仙台市の荒浜地区から南、名取川を渡って名取市に入ったところにある閖上地区。漁港であり、朝市が有名。震災前は多くの住宅が立ち並んでいた閖上地区だが、震災後の今は道路と住宅の基礎の跡でそれと知ることができるのみ。この一角に漁港ならではの日和山がある。


 斜面に並んだ風車で彩られた「元気」の文字を見たとき、なんとも言えなかった。


 のちに山頂に神社の社が再建されるが、この頃はまだなく、日蓮宗?の方が建てられたのだろうか、震災犠牲者の慰霊の札が立っているのみだった。



2018.2.21

願い

(宮城県仙台市)

By S.K

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【2012年8月撮影】

 震災前は海水浴場があった荒浜地区。この場所で住み続けたいという、地元への愛着が伝わってくる手書きの看板を見た。


  震災後、津波への備えのために、沿岸部の地域は元の場所に住んでよい地域と、移転しなければならない地区とに分けられてしまうことになった。



2018.2.12

絶句

(宮城県石巻市雄勝)

By S.K

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【2011年7月撮影】

 奥深く長い湾の形が、津波被害をさらに大きくしたといわれる石巻市雄勝地区。中心街は特に被害が大きく、病院での悲劇も記録に刻まれている。


 足を踏み入れた時、震災前に比べて何も無くなってしまった街にも驚いたが、役場の上に大型バスが載っているのを見たときには「なぜ?」という言葉すら出なかった。


 そして同じ町内では、もう一台の同じ会社の同じ大型バスが被災し、そちらはボコボコに変形していた。こちらはテレビでは取り上げられたのだったろうか。


 震災後、よく「想定外」という言葉を聞いたが、人一人ひとりの『想定』できることなどたかがしれている範囲なのかもしれない、と思い返す光景。






2018.1.29

私たちの支援

(宮城県石巻市)

By k.e

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【2017年2月撮影】

 宮城県石巻市の飯野川仮設住宅。集会所で被災者の声に耳を傾けるスタッフの姿がある。

 震災から7年が経過しようとしている現在、仮設住宅は減り、残った仮設住宅でも人が減っているのが現状だが、どのような状況であっても被災者の声を聴き続けていきたい、と私たちは考えている。



2018.1.27

高田の一本松@2011

(岩手県陸前高田市)

By S.K

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【2011年9月撮影】

 有名になった陸前高田市の奇跡の一本松。この頃はよく見えていた。周辺の復興工事の進展に伴い、その後はだんだんと見えづらくなっていった。



2018.1.21

ちょっとほっこり

(宮城県石巻市街)

By S.K

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【2013年5月撮影】

 震災から2年も経ったある日、道端の花の根っこにこんなメッセージが添えられているのを見た。


あの時も、今見ても本当によかったなぁと思う1枚。



2018.1.16

ビルが倒れていた街…②

(宮城県気仙沼市街)

By S.K

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【2011年9月撮影】

 宮城県北部沿岸まで行くためには、沿岸部の一般道をずっと走っていくしかなかった。


 その途中、気仙沼市まで着くと特徴的な酒造会社のビルが残っていた。倒れてしまってはいても、(ここまで来たな)と一目でわかる姿が残っていることが心強かった。



2018.1.10

ビルが倒れていた街…①

(宮城県女川町市街)

By S.K

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【2013年10月撮影】

 女川町の港を見下ろす丘から見た。整地が進み、それまでの道路が全く違う道筋になっていたりして、まだまだ雑然としていた街の印象が大きく変わってきた印象がある。


 中央に横たわっているのは、江島共済会館という名称だと建物のどこかに書いてあった気がする。写真だとそれほど大きく見えないが、近くで見ると、こんなビルがそのまま横倒しになるのだという津波の驚異的な力にただただ圧倒された。震災後女川の街には、このように波の力で倒されたビルがいくつもあった。


 女川の街に入る道筋にあったこともあり、見るたびに女川に来たぞという強烈な存在感のある建物だった。この後震災遺構としては保存されずに解体された。



2018.1.4

忘れてはいけない

(宮城県女川町沿岸部)

By S.K

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【2013年10月撮影】

津波被害に遭った地域では、避難の目安に津波が到達した高さを表示する標識が多く設置されているのを見る。


三陸の沿岸では、山が海まで迫っていてあまり平たい海岸が続くという場所は多くない。ところどころ山が低くなった小さな入江があり、そこに浜と港と街並みがあるというような印象だ。


これは、そんな浜の一つで見た書き込み。


住宅が建っていた海沿いの浜から、山へ向けて急な坂を登る途中の壁に書き込まれていた。その坂の急な具合と書き込まれた場所の標高の高さに、こんなところまで波が来るものかと一同驚いた。


既成品の標識ではなく手書きで書き込まれたその様子が、体験した人々の「忘れてはいけない」という気持ちを表しているかのようだった。


2017.12.11

今でも

(福島県沿岸部)

By S.K

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【2014年11月撮影】

ある寺院の行事が終わった後、暖かい食べ物を提供するお手伝いに、仙台教区の有志で炊き出しにうかがった。

雨が降り、山からの冷たい風が吹き降ろしてくる。

冬の声が近いことを肌で感じながら、たこ焼きやぜんざい、焼き鳥的な暖かいメニューを皆で用意していたのだったろうか。

正しいコトだったのかどうかはわからないが、テントの中はそれでもとても暖かくなったことを覚えている。

震災から3年後の冬、仮の場所に集う人は『今でも』いたのだ。


2017.10.1

仮設住宅は「仮」

(石巻市沿岸部)

By S.K

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【2011年9月撮影】

特に平地が少ない沿岸部では、なかなか仮設住宅が設置されなかった。

津波が来ない高台を整地して仮設住宅を整備しようにも、本当に平らな土地がなく、小規模な集落が点在していた石巻市以北の土地。
ある所で、やっと建てられた念願の仮設住宅は、台風シーズンとともに猛烈な雨水の襲来に見舞われた。


仮設住宅を訪問したら、取り付け道路も裏の沢もだいぶ水でえぐり取られた跡がある。
柵もなぎ倒されていた。


    「大丈夫だったんですか?」

    「床下が川みたいだったな」


プライバシーのない避難所から、やっと個室のある仮設住宅へ。
「よかったね」「もうひと段落だね」
外部の我々はそう思った。
しかし、古に集落が置かれていなかった土地には、理由があったのかもしれない。

本当にまだまだ「仮設」なのだなと感じた、ある晴れた秋の日。


2017.8.21

仮設住宅「夏祭り」

(仙台市内)

By S.K

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【2013年8月撮影】

夏と言えば、地元でのお祭り。

避難先の仮設住宅で催されるお祭りも、震災支援でお祭りに参加される団体もあるなど、賑わいのあるものとなった。

私たちもささやかながら、焼き鳥その他で参加させていただいた。

2017.6.26

震災遺構「荒浜小学校」

(仙台市)

By K.F

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 【2017年5月9日撮影】

地震発生後、地域住民など320名の方が避難した
仙台市立荒浜小学校。
津波で2階まで被災した小学校は閉校となったが、
今年4月より震災遺構として公開され、
震災・防災の学びの場となっている。

2017.6.2

旧防災対策庁舎

(南三陸町)

By K.F

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 【2011年4月17日撮影】

建物を超える津波に襲われ、43人が犠牲となった
南三陸町の旧防災対策庁舎。
2031年までの間、県有化される建物は補修工事が完了した。
町は県有化の期限までに震災遺構とするかを判断する。

2017.4.28

足湯

(会津若松市)

By K.F

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【2011年10月13日撮影】

ボランティア活動の足湯。
お湯を入れたタライに足を浸すと体が温まる。
被災者と真向かい、マッサージで手をほぐしながら世間話をする。
時折こぼれる震災当時の言葉を聞く。

2017.3.30

寄せ書き

By K.F

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 【2011年4月15日撮影】

震災後、全国各地から様々なメッセージが寄せられた。
震災から丸6年が経ち、震災の記憶が風化する中、
被災地では今後も復興に向けた取り組みが続く。

2017.3.1

勿忘の鐘
(わすれなのかね)

(陸前高田市)

By K.F

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 【2011年4月13日撮影】

本稱寺(陸前高田市)の梵鐘。
震災から6年が経過し、
七回忌を迎える今年の3月11日も、
「勿忘の鐘」に賛同する全国各地の寺院で
鐘が鳴り響く。

2017.2.1

牡鹿中学校の運動会

(石巻市)

By K.F

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 【2011年9月3日撮影】

炊き出しボランティアで参加した
牡鹿中学校の運動会。
リレーにも加わって、バトンをつなぎ、
裸足や長靴で被災者とともに走った。

2016.12.28

巨大「鯨大和煮」タンク

(石巻市)

By K.F

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 【2011年7月2日撮影】

石巻市の水産加工会社の鉄製タンク。
会社の看板でもあった魚油貯蔵タンクは、
震災当時200トン以上貯蔵されていたが、
津波で約300mも流された。
津波の凄まじい力に脅威を感じる。

2016.11.28

防災意識の標語

(釜石市)

By K.F

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 【2011年3月17日撮影】

1960(昭和35)年、チリ地震により東北地方にも
津波が押し寄せた。
震災前から横断幕に書かれた防災意識の標語。
防災意識は、他人事ではなく「自分事」にすることが、
大切だと教えられた。

2016.10.31

海楽寺庫裡の掃除

(仙台市)

By K.F

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【2011年11月18日撮影】

津波で被害を受けた海楽寺(若林区)庫裡の掃除。
震災の年の11月、ご門徒の強い願いもあり、
隙間風の吹く庫裡で報恩講が勤められ、
バラバラになっていたご門徒が集った。

2016.9.28

墓石の修復作業

(宮城県女川町)

By K.F

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  【2011年7月2日撮影】

女川(おながわ)町の山林にある共同墓地。
震災後、初めてのお盆を迎えるため、
全国各地のボランティアの方々により、
地震で倒壊した墓石の修復作業が行われた。

2016.9.5

支援物資の無料バザー

By K.F

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 【2011年6月28日撮影】

震災直後、全国からお寄せいただいた支援物資は
避難所などで無料バザーとして配布。
震災から約5年半が過ぎた今も、
「東本願寺さんには震災直後からお世話になった」
と言われる方もいる。

2016.7.29

本稱寺仏具捜索

(陸前高田市)

By K.F

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 【2011年4月15日撮影】

元本稱寺敷地裏手にある小学校のプール。
ボランティアの方々は、人力での限界を感じながらも、
本稱寺復興のため津波で瓦礫の山と化した中から
仏具などを捜索した。

2016.7.1

大谷大学ボランティア

(石巻市)

By K.F

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 【2011年6月5日撮影】

大谷大学の学生や教職員有志によるボランティア活動は、
震災後の6月から現在まで18回実施された。
参加した学生は、活動しながら被災者との交流を深めた。

2016.5.31

松江寺での炊き出し

(岩手県山田町)

By K.F

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 【2011年6月1日撮影】

松江寺での炊き出し配食を待つ行列。
避難所生活の方々が温かい食事を求めて並ばれた。
この日は東京教区のボランティアが炊き出しを行い、
お一人お一人にお食事を手渡した。

2016.4.28

震災がれき集積所

(石巻市)

By K.F

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 【2011年6月4日撮影】

地震で破損または津波で流された電化製品や
家具などが集められた石巻市の集積所。
人びとの生活の場にあったものも、
一瞬にして、津波の犠牲となった。

2016.4.7

災害ボランティアセンター
通信

(宮城県亘理町)

By K.F

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 【2011年4月13日撮影】

2011年4月、亘理(わたり)町に
開設されたボランティアセンターでは、
いまだ余震が続くなか、
県内外から多くのボランティアがかけつけた。

2016.3.7

腕輪念珠づくり

By K.F

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 【2011年6月28日撮影】

避難場所で始めた腕輪念珠づくり。
これまでどれだけの腕輪念珠が
つくられただろうか。
「この腕輪念珠で3月11日にはお参りします」
との声も聞かれます。

2016.2.18

波しぶき

(宮城県)

By S.K

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   【2011年9月撮影】

沿岸部へ支援活動に向かうとき、こんな光景を見た。
震災後は、地割れだけでなく地盤沈下もあり、
海沿いの地域では冠水して道を阻まれることも多かった。
この道路しか先へ通じる道はないので、
タイミングをみて通過した。

穏やかな日には、この道路でこんな光景は想像できない。
海の力の大きさを目で見て恐さを感じた瞬間。

2016.1.28

写真の洗浄

By K.F

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 【2011年9月2日撮影】

津波で水没、汚れてしまった写真の洗浄。
写真についた泥などの汚れを
一枚一枚、丁寧に水で洗い落とす。
綺麗になった写真からは、大切な思い出が伺えた。

2015.12.28

仙台仏青お風呂プロジェクト
(BOP

By K.F

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【2011年6月28日撮影】

震災直後の望みは「お風呂に入りたい」。
仙台仏青お風呂プロジェクト(略して「BOP」)始動。
ドラム缶から始まり、家庭用浴槽に湯沸かしかまどを
備えたお風呂へと進化。

※写真は被災した鈴木さん宅(牡鹿半島)

2015.11.30

旧閖上小学校

(名取市)

By K.F

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【2011年10月14日撮影】

津波で流された品物が集められた旧閖上小学校。
持ち主の引き取りを待ち続け5年目。
さまざまな思いがあってか、
約2000点が残されたままであるが、
2016年3月で全てが片付けられる。

※閖上(ゆりあげ)

2015.11.5

海楽寺の時計

(仙台市)

By K.F

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【2011年3月25日撮影】

2011年3月11日 午後2時46分、
海楽寺(若林区)の時間は止まった。
そして、その約1時間後に押し寄せた津波によって、
本堂は全壊した。

2015.10.8

双葉保育園

(福島県双葉町)

By K.F

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【2013年9月30日撮影】

双葉保育園に残された園児のカバン。
震災直後、何も持たずに急いで避難した園児たち。
結果、これらのカバンは放射線に汚染され、
子どもたちのもとに帰ることはなかった。

2015.9.22

女川の壁

By S.K

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   【2011年9月撮影】

宮城県女川(おながわ)町のがれき処理現場の壁。
後に明るい絵が描き込まれて、
とても明るい雰囲気になったのを覚えている。
この時はどこにでもある、ただの「まっ白」の壁。

2015.9.6

寄せ書き

By S.K

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 【2011年9月9日撮影】

避難所で寄せ書きを見た。
日本全国どころか外国からのものもあった。
知らない名前を見るだけなのに、元気が出た。