>>> 震災108 <<<
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東日本大震災を写真で振り返るコーナー。あのできごとを忘れないために。
2018.3.10
立ちあがる街…③
(福島県内沿岸部各地)
【2018年撮影】
震災当初、テレビや新聞で報道された避難所には支援や物資が集まり、その近くであっても、あまり報道されない場所では、物資も関心も不足するという現象があったようなことを思い返す。報道されることの反対には、報道されない日常もあることを、つい忘れがちだということを生で見て思い返す。
「浄土真宗大谷派のうち東北地方の太平洋側、岩手・宮城・福島を仙台教区という」と、一口に定義を言っても、震災の被害・不安は津波によるものだけではなく、『放射性物質』という、海を越え、山を越え、壁を越えてくるものによっても惹きおこされている。
福島県沿岸部の街は、ある街は、交通機関の移設と共に中心街を移し、新たに街づくりを進めている。ある街は、既存の街並みのなかで再興を図っている。
生まれ育った地が、一口に「被災地」という言葉で紹介されるようになり、以来7年。歩んだ道は様々であり、人のはからいが及んだことも、また及ばないこともあったのだと改めて感じさせられる気がする7年。どうだったのだろうか?。
今日は3月10日。1945(昭和20)年には東京大空襲のあった日でもあります。そして、あすは3月11日。
2011年のあれから、7年目の今日を迎えます。
生物の営みは変わらず、今年も花が咲き始めています。
何を無くし、何に気づいたのか、そして何がそのままなのだろうか?。あの日を憶念しつつ考えてみたいと思います。
明日は各寺院で東日本大震災追弔「勿忘の鐘」法要が、真宗大谷派の全国各地の寺院で行われます。どうぞお気軽にご参加下さい。詳細はこちらから
【 おまけ 】
おっと!
彼(イノシシ?)もまたその影響を受けているともがらなのかもしれない。
2018.2.12
絶句
(宮城県石巻市雄勝)
2018.1.29
私たちの支援
(宮城県石巻市)
【2017年2月撮影】
宮城県石巻市の飯野川仮設住宅。集会所で被災者の声に耳を傾けるスタッフの姿がある。
震災から7年が経過しようとしている現在、仮設住宅は減り、残った仮設住宅でも人が減っているのが現状だが、どのような状況であっても被災者の声を聴き続けていきたい、と私たちは考えている。
2018.1.10
ビルが倒れていた街…①
(宮城県女川町市街)
【2013年10月撮影】
女川町の港を見下ろす丘から見た。整地が進み、それまでの道路が全く違う道筋になっていたりして、まだまだ雑然としていた街の印象が大きく変わってきた印象がある。
中央に横たわっているのは、江島共済会館という名称だと建物のどこかに書いてあった気がする。写真だとそれほど大きく見えないが、近くで見ると、こんなビルがそのまま横倒しになるのだという津波の驚異的な力にただただ圧倒された。震災後女川の街には、このように波の力で倒されたビルがいくつもあった。
女川の街に入る道筋にあったこともあり、見るたびに女川に来たぞという強烈な存在感のある建物だった。この後震災遺構としては保存されずに解体された。
2018.1.4
忘れてはいけない
(宮城県女川町沿岸部)
【2013年10月撮影】
津波被害に遭った地域では、避難の目安に津波が到達した高さを表示する標識が多く設置されているのを見る。
三陸の沿岸では、山が海まで迫っていてあまり平たい海岸が続くという場所は多くない。ところどころ山が低くなった小さな入江があり、そこに浜と港と街並みがあるというような印象だ。
これは、そんな浜の一つで見た書き込み。
住宅が建っていた海沿いの浜から、山へ向けて急な坂を登る途中の壁に書き込まれていた。その坂の急な具合と書き込まれた場所の標高の高さに、こんなところまで波が来るものかと一同驚いた。
既成品の標識ではなく手書きで書き込まれたその様子が、体験した人々の「忘れてはいけない」という気持ちを表しているかのようだった。
2017.12.11
今でも
(福島県沿岸部)
【2014年11月撮影】
ある寺院の行事が終わった後、暖かい食べ物を提供するお手伝いに、仙台教区の有志で炊き出しにうかがった。
雨が降り、山からの冷たい風が吹き降ろしてくる。
冬の声が近いことを肌で感じながら、たこ焼きやぜんざい、焼き鳥的な暖かいメニューを皆で用意していたのだったろうか。
正しいコトだったのかどうかはわからないが、テントの中はそれでもとても暖かくなったことを覚えている。
震災から3年後の冬、仮の場所に集う人は『今でも』いたのだ。
2017.10.1
仮設住宅は「仮」
(石巻市沿岸部)
【2011年9月撮影】
特に平地が少ない沿岸部では、なかなか仮設住宅が設置されなかった。
津波が来ない高台を整地して仮設住宅を整備しようにも、本当に平らな土地がなく、小規模な集落が点在していた石巻市以北の土地。
ある所で、やっと建てられた念願の仮設住宅は、台風シーズンとともに猛烈な雨水の襲来に見舞われた。
仮設住宅を訪問したら、取り付け道路も裏の沢もだいぶ水でえぐり取られた跡がある。
柵もなぎ倒されていた。
「大丈夫だったんですか?」
「床下が川みたいだったな」
プライバシーのない避難所から、やっと個室のある仮設住宅へ。
「よかったね」「もうひと段落だね」
外部の我々はそう思った。
しかし、古に集落が置かれていなかった土地には、理由があったのかもしれない。
本当にまだまだ「仮設」なのだなと感じた、ある晴れた秋の日。
2017.8.21
仮設住宅「夏祭り」
(仙台市内)
【2013年8月撮影】
夏と言えば、地元でのお祭り。
避難先の仮設住宅で催されるお祭りも、震災支援でお祭りに参加される団体もあるなど、賑わいのあるものとなった。
私たちもささやかながら、焼き鳥その他で参加させていただいた。
2016.3.7
腕輪念珠づくり
【2011年6月28日撮影】
避難場所で始めた腕輪念珠づくり。
これまでどれだけの腕輪念珠が
つくられただろうか。
「この腕輪念珠で3月11日にはお参りします」
との声も聞かれます。