「親鸞」という字はむずかしい 2015年6月14日号 最終回
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浄土真宗の宗祖・親鸞は実在しなかったのではないか、そんな「親鸞架空説」が明治時代に一部の学者の間でささやかれていた。なにしろ親鸞という人は自身の出生、生い立ちをほとんど語っていなかったし、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が一切記されてもいなかった。毎年報恩講で読み上げられる「御伝鈔(ごでんしょう)」が唯一の伝記といえるが、これも親鸞の死後三十数年を経て、ひ孫の覚如が書いたもの。覚如にしてみれば、自分のひいおじいさんだし、浄土真宗の開祖だし、都合の悪いことなど書けるわけもない。当然のことながら家柄等もかなり底上げし、伝説的なことも多々書き込んだにちがいない。そんなこんなで親鸞は歴史のなかに存在しなかったのではないか、という説があった。
親鸞架空説が決定的に否定されたのは、一九二一(大正十)年、西本願寺の宝物庫から親鸞の妻である「恵信尼(えしんに)」の手紙が発見されたからだ。生活感皆無、日常生活などまったく想像もできなかった親鸞の姿が、妻の目をとおして初めて明らかになったのである。それまで親鸞の妻といえば高貴な家柄の「玉日姫(たまひひめ)」だったが、恵信尼の登場で庶民度がぐっと増した感がある。
真宗の住職の妻を「坊守(ぼうもり)」と呼ぶ。坊守たちの集まりを「坊守会」といい、その研修会や勉強会でよく取り上げられていたのが「恵信尼消息(しょうそく)」(手紙集)。恵信尼は「理想の坊守像」として、宗門内の住職や坊守の圧倒的な支持を得ている。
「この前、夢を見たんだよ。光り輝く仏さんがいてね、あの人はだれ?ってきいたら、あれは法然上人という人で、勢至菩薩の生まれ変わりだっていってたよ。そう殿(親鸞)に話したら、ああ、そりゃぁ正夢だ。法然上人が勢至菩薩の化身だったという夢を見た人はたくさんいるからな、って殿がいってた。でもホントは夢の続きがあって、その隣にもう一人の仏さんがいて、それは観音菩薩の化身であるところの殿だったじゃない!でもそんなこと、本人にいえないし。それ以来、内心、ウチの殿はただものじゃないと思っている」
我流のかなりいい加減な現代語訳(笑)だが、恵信尼が圧倒的な支持を得ている部分がここである。つまり、自分の夫を観音菩薩の化身としてみていること。ここに真宗のご住職方は魅せられるらしい。坊守は三歩さがって、夫を観音菩薩の化身と拝みつつ、お念仏の生活をしてまいりましょう、と。
いやいやいや、ちがうでしょ。自分の夫が親鸞さんなら観音菩薩だろうが勢至菩薩だろうが、仏様の化身として拝みますよ、そりゃ当然。ご住職方、拝まれたければそれなりの人にならなけりゃ。
恵信尼の残した手紙によって親鸞の存在が確固たるものとなった。その点からいうと、影がうすくて架空の存在になりかけている夫たちを確固たる存在にするのは、現代の恵信尼たちにほかならないのだ、なぁんてことを思っている今日この頃。
「ネ」について… 2015年6月7日号
36文の35号文
私は色々なことを結構、根にもつほうだ。幼稚園の年少組のとき、ワケもなく足をたたかれ、その理不尽さに入園以来、人前で初めて泣いた。その子とは小学校も同じで、別に仲が悪いわけでもなく、普通に遊んでいたが、ときおり、幼稚園のことが頭をかすめ、ちょっとはムッとする。でも、その子の屈託のなさに、根にもっているのは私だけなのかと、つまらない気持ちになったものだった。当然、その子の名前と顔は今でもはっきりと憶えている。
配偶者とのある夜の会話。
「あのときはこういう状況だったよ。わからないことがあったら、このアタシになんでもお聞きなさい」
「ふ〜ん、キミはなんでもよく憶えているなあ。オレはちっとも憶えていない…」
「それはアタシとあなたでは、ネニモッテルドの度合いがちがうのさ」
「ネニモッテルド?」
「そう、根にもってる度の度合いが…」
『根に持つ』とは、「恨みをいつまでも忘れないでもつ」(類語大辞典)ということで、「忘れないでもつ」中身は感動的なこととか思い出深いことではない。「恨み」なのだ。ゆえに、「あの人の愛の言葉を、私はずっと根にもっている」とか「あのときの楽しい想い出を、一生根にもつ」という使い方はしない。「あの人の裏切りを、私はずっと根にもっている」あるいは「あのときの楽しい想い出をぶちこわしたことを、一生根にもってやる」という使い方が正しい。
私は、感動・感銘をともなう心の作業、つまり「胸に刻む」とか「肝に銘じる」「心に留める」などが、イマイチ不得意なようだ。そのかわりといってはなんだが、「根にもつ」ことは得意中の得意。幼稚園のときの出来事などは、子供に理不尽さはつきもの、ということで「根にもってる度」はかなり低い。ところが、おとなになり、自信がつき、それが過剰になってくると「根にもってる度」は徐々に上昇してくる。
何しろお嬢様育ち(?)なもので、人からきつい言葉や態度をとられたことがあまりない。だから自分に対して少しでも批判的なことをいわれたりすると、たちまちヘコみ、自分をかえりみることなど棚にあげて、その人だけを根にもつ。あんなことをいったのに、あの人は平然としているなんて、マジ、ムカツク!と、「根にもってる度」がかなり上昇。その人にしてみれば、思っていることをしゃべったにすぎないのに…。
自分のイタイところをつかれ、それを決して認めようとせず、「根にもつ」ことで鉄壁のヨロイを身につける。私にとって、自己保存の有効な方法なのである。ただし、これをすると、いやな人を寄せつけない、近寄らないため、世間がものすごく狭くなるためご注意を。
ちなみに、配偶者は根にもつことのない「悟った人」ではない。単に老化現象の物忘れが進行しただけのことである。おまちがいなきよう。
コーヒーショップにて 2015年5月31日号
36文の34号文
ショッピングモールの昼下がり。コーヒーショップのイスに座って、コーヒーを飲みながら、そぞろ歩きの人たちをながめる。
ひと月に一度、この店にやってきてコーヒー豆を買う。娯楽の少ないオバさんのささやかな楽しみってヤツだ。コーヒー豆をひいてもらっている間、小さな紙コップに入った「本日のコーヒー」をタダで飲ませてもらう。若干、検尿のコップに似てなくもないが…。
で、そのコーヒーをチビチビ飲みながら、コーヒーショップの注文に並ぶ人や、パンケーキを食べながらおしゃべりする人や、外を歩く人たちを、見るともなく見ることとなる。
いや、ハタ目から見ると「見るともなく見る」なんて優雅なものではないだろう。いいトシをしたオバさんが、胡散くさい目つきで若い子を上から下までジロジロとにらんでいるように見えるだろうなと、思いつつも、ジロジロとにらんでいる。
なんでジーンズの上にエプロンみたいなミニスカートをはくんだろうか? なんでミニスカートの下に黒いもも引き状のものをはくんだろうか? なんで上はタンクトップの真夏なのに、下はハイソックスにブーツの真冬なんだろうか?あんなに先のとんがった靴をはいて、歩くときに邪魔にならないんだろうか? あんなツッカケでズルズルと歩いて、地震が来たら走って逃げられるんだろうか? あの男の子、腰のところに引っかかっているだけのあのズボン、ひそかに後ろから近づいて、一気にズリさげてやりてぇ…!
「お待たせしました」
ひいたコーヒーの紙袋を店員さんが持ってきてくれた。ズリさげてやりてぇ!など当然オクビにも出さず、ありがとう、にこやかに笑って紙袋を受け取った。
そういえば、私の若い頃はミニスカートの全盛期だったじゃないか。そう、私だって足の太さなんぞを気にせずにはいていたさ、ミニスカートを。今でもありありと目に浮かぶ。白いタートルネックにグレーのブレザー、白黒の千鳥格子のミニスカートに白いハイソックス。上京したての一番のキメ服。安いスカートを買っては、丈三十八センチにセッセとすそ上げをしていたっけ。
そういえば、靴だって「ぽっくり」みたいな厚底が大流行だったじゃないか。男の子は皆、ロンドンブーツをはいてギクシャクと歩いていた。私だってなす紺のゴロッとした厚底の靴をはいていたさ。歩くとゴトゴト音がするんだ。結構気に入っていたけれど、ある日、玄関に脱ぎ捨てられたこの靴を見て、色も形も「ナス」そっくりということに気がついた。以来、あんまりはかなくなった。
アルバイト料の大枚をはたいてブーツだって買ったさ。足のサイズより太ももの部分をキチンと計測して。はく靴がなくて、夏のサンダルが終わると、ムレるのも気にせず即、ブーツに移行したっけ。
あれ…?今の子たちとあんまり変わらない格好をしてたのか、私。
衣更え 2015年5月24日号
36文の33号文
またおのれの愚かさと真向かわなければならぬ時期となった。冬物から夏物の衣類の入れ替え。
最近は無臭の防虫剤を使っているので頭痛は少し和らぐが、気持ちの悪さは相変わらずだ。床が見えぬほど積み上げられるほとんどが、*まむら、ユニ☆ロ、イ♤ン前潟店、イ♡ン本宮店等の五八〇円、九八〇円、せいぜい高くて一二八〇円の代物ばかり。季節終わりのバーゲンで買ったものは着る機会をのがしてしまって、値札が付いたまま。え、これ、私が買った?ホントに私が買った?なぜに?と思うものも多々あり。今にして思うと、いつの日か沖縄のリゾートビーチで着るかもしれないと、妄想半分で買ってしまったものだろう。
なんで私は安いとはいえ、必要もないものを買ってしまうのか、毎回毎回毎回毎回、衣更えのたびにそう思う‥‥。
昔、実家の母がほとんど寝たきり状態のとき、よく衣類の入れ替えを頼まれたものだった。さほど多くない冬物をタンスから出し、押し入れから夏物をタンスに入れる。入れ替えをしたって、これを着て歩けるわけではないのに‥‥と、湿っぽい気持ちをかかえていた。
「派手なシャツは着ないから、あなたにあげる。」
「その夏のコート、着るかもしれないからそこに掛けておいて。」
クリーム色の薄手のコートを枕元のついたてに掛けると、部屋が少しだけ明るくなった。母はいつも満足そうにいった。
「ああ、これで安心した」
うちのおばあちゃんも、夏の始まり、秋の終わりには律儀に衣更えをしていた。元気な頃には色とりどりのワンピースやスカートをかかえ、二階の納戸へ往復していた。ギシギシと階段の音がするたび、季節の変化を感じていた。体調を崩してからは私の出番。段ボールを二階からおろし、タンスに入れる。きれいな色が多かった衣類は少しずつ地味な色ばかりになっていく。そういえば、華道協会のパーティに行くこともなくなったし、デパートに買い物に行くこともなくなった。軽やかなワンピースはもう何年も納戸から出てこない。
終わったよ、そうおばあちゃんにいうと、にこにこと笑って、母と同じことをいった。
「ありがと。ああ、これで安心した‥‥」
結局、母は入れ替えた夏物を着ることもなく、夏の終わりにいなくなった。おばあちゃんは入れ替えたばかりの秋物を着て病院へ向かい、それから二度と袖を通すことはなかった。
二人の母は衣更えのたびに「安心」していた。いったい何に「安心」していたのだろう。私に「安心」できる衣更えの日はやってくるのかな。
丸二日かけてようやく終わった衣更え。思い切って処分したのはゴミ袋ひとつ。少しばかりタンスが軽くなった。
さてと、*まむらに行ってこなくちゃ。
吉凶あざなえる縄の如し 2015年5月17日号
36文の32号文
住宅街の静かな道、車の前、十メートルほどのところに猫が飛び出してきた。
「あぅっ! 猫! それも黒猫! え、えんぎ悪い!」
急ブレーキと同時に頭に浮かんだのは「あぶない!」よりもなによりも「黒猫が前を通ると縁起が悪い」ということわざ。
「キィーーッ!」
車のブレーキの音にびっくりした黒猫は、道のまんなかで目と背中をまん丸にして、こちらをにらんでいる……
「黒猫が前を通りすぎると不幸になる」というのは西洋の言い伝えらしい。黒猫は魔女の「使い魔」で、不吉なものとして恐れられ、中世キリスト教の「魔女狩り」あたりが起源ではないかとのこと。そうすると、即、疑問がわきおこる。「クロネコヤマトの宅急便」はどうなるんだと? ところが大丈夫。一方で黒猫は幸運のシンボルであり、特に商売関係では繁盛をもたらすそうだ。これなどは日本の「招き猫」と相通じるものがある。黒猫もアッチコッチと忙しい。
世の中、日本古来の俗信・迷信・まじないに加え、西洋・中国その他諸々のものがはいってきているので、なんとまぁ、大変なことである。
たとえば、「十三日の金曜日」といえば不吉な日とされているが、「風水」においては「十三」は吉数で多くのチャンスをもたらす数なんだと。
「四九」という数字、日本では「死苦」に通じるとして忌み嫌われている。特に自動車運転に関しては「轢く」が「しく・ひく」とも読めて縁起が悪いため、日本の自動車のナンバープレートは(希望による申し出があった場合を除き)下二桁「四九」を付番しないことになっているそうだ。ところが一方、アメリカでは、一八四九年のゴールドラッシュに通じるとして「四九」の数字は幸運とされるんだと。ちなみにウチの車のナンバーは「九九四四」。ものすごく縁起悪くて、ものすごい幸運? マジ、すごくね?
もっとも有名なのが「友引」。
これはもともと諸葛孔明が考え出した戦の暦らしい。だから仏教とは一切関係がない。友引は本来「共引」と書き、「相打ち共引とて、勝負なしと知るべし」つまり、「引き分け」の意味なのである。たんなる語呂合わせだけで、日本中の仏事万端が滞る。このほかにも「仏滅」は葬式に不向きだとか、「四」のつく日には葬式をしないだとか、「赤口」はよろず忌むべし、だとか(ただし昼の二時間だけはよろし)、人が亡くなってから四・七日(よなのか)は「寄ってもみるな」、六・七日(むなのか)は「向いてもみるな」。
ああ、私たちはいったい何をそんなに恐れているのか。
さて、冒頭の黒猫、道のまんなかで背中を丸め、こちらをにらみつけ、道を渡ることを断念したらしく、クルッときびすを返し、出てきた生け垣の中へタタッと戻ってしまったのだ!
こういう場合はどうなるのだろう。黒猫が前を通らなかったので不幸にはならない。が、幸運をもたらす黒猫は途中から逃げ出してしまった。現状維持?わからん……。
聖☆おにいさん 2015年5月10日号
36文の31号文
『 聖(せいんと)☆おにいさん』という漫画が実に面白い。全四巻、おとな買いしてしまった。
「神の子・イエス」と「目覚めた人・ブッダ」は世紀末を無事に乗り越え、人間界におりてきてバカンスを楽しむ。東京・立川、風呂なしトイレ付きの木造二階建てアパートに二人で共同生活をしている。有給休暇らしく、生
『 聖(せいんと)☆おにいさん』という漫画が実に面白い。全四巻、おとな買いしてしまった。
「神の子・イエス」と「目覚めた人・ブッダ」は世紀末を無事に乗り越え、人間界におりてきてバカンスを楽しむ。東京・立川、風呂なしトイレ付きの木造二階建てアパートに二人で共同生活をしている。有給休暇らしく、生活費は「天界」から銀行口座に振り込まれるらしい。
イエスは長髪、ヒゲ面のイケメン。頭に茨の冠をつけた自称二十四歳。この茨の冠にはGPS機能がついていて、天界の弟子たちは常にイエスの居場所を確認しているらしい。イエスの身に危険があると、すぐさま天使たちが救援に駆けつける。パソコンオタクで、いつも新しいノートパソコンを欲しがる天真爛漫な浪費家。
一方、ブッダは家事全般を取り仕切り財布のヒモがかたい。頭は螺髪(らほつ)、額には白毫(びゃくごう)、長い耳たぶは帽子をかぶってもはみ出していて「救いを求める人達の声をよく聞くための大きな耳っていうけど‥、耳たぶの部分は関係ない気がするんだよなぁ‥」と思っている。おとなしく温厚な性格だが、三度怒らせるとその性格は豹変する(「仏の顔も三度」的な意味で)。
イエスはガマンをするたびに額の聖痕)から血が流れてくるし、感情が高まると銭湯のお湯をワインに変えたり、石をパンに変えたりの奇跡をおこしてしまう。ブッダは徳の高いことをいうと、いつでもどこでも後光が射してくるし、うれしいことがあるとどこを歩いていようが、その足跡に華が咲き、鳥たちが舞いおりる。誰でも知っている二人の有名なエピソードを随所にはさみこみ、この二大聖人と現代日本のギャップが笑わせる。そして何より、二大宗教の教祖でありながらムダな説教をしないのが一番いい。
毎月、本山から機関誌や新聞が送られてくる。ザッと目を通しただけで終わるが、ザッと目を通しただけでもどこかクラい。ずっと昔から「無明の闇を破るのだ!」といいつつも、いまだにうすボンヤリとしたクラさが延々と続いている。
「「真の仏弟子」「五障三従」「女人成仏」「愚者」「本願念仏」‥‥、真宗用語はもともとイメージが暗い。そのうえ「人間とはなにか」といった内向き(?)の傾向があるのでよけいに暗い。本山からの配布物は二〇〇〇年前、八〇〇年前、五〇〇年前の文章(教義)をああでもない、こうでもないと、重箱の隅をつつくようにいじくり回しているだけのような気がする。突き抜けた「明るさ」がない。
宗門は、東京・立川のオンボロアパートにイエスとブッダ、二人の青年が降臨するような、そんな発想の大転換をしなければと、思うが、ま、ムリ。
除夜の鐘をつきにいったイエスとブッダ。もう少しのところで一〇八回の鐘つきに間にあわなかった。悲しむブッダ。
「絶対カウントしそこねてる煩悩の一個や二個あるから、多めについたってバチは当たらない‥っていうか、当てないのに!」
ブッダはさめざめと泣いた。
東京観光 上野動物園編 2015年5月1日号
36文の30号文
なぜ、ほとんど皆、お尻を向けているのか? パンダもダチョウもレッサーパンダもアメリカンバイソンも、サイも。わずかにゾウとホッキョクグマは横向きで、ウロウロしていたが。
動物園のことである。三十数年ぶりに訪れた上野動物園。
一九七二年、中国から来たパンダ「カンカン」「ランラン」が一般公開されたとき、見に行った。上野駅の公園口からゾロゾロと続く人の流れに乗って。
「立ち止まらないでくださぁい! ほらっ、そこ!、立ち止まらないで!!」
拡声器を持った人に追い立てられて、ラッシュ時の電車のごとく押され揉まれて、しゃれたレンガの外壁、ガラス張りのパンダ棟を通り過ぎる。その数分間に「うわぁ」とか「へぇ」とか「かわいいぃ」とか聞こえてくるのだが、一番多かったのが
「すんげぇとこに住んでるな」
「冷暖房完備だってよ」
「ウチよりりっぱだ、ここ…」
という声。
当のパンダは、というと、まったく記憶にない。おそらく今回と同じように、お尻を向けて丸まって寝ていたのかもしれない。おぼえているのは日本庭園のような笹の緑と、ガラスに映った私達の顔だけである。
ちなみに、「人寄せパンダ」という言葉はこのときにできたものらしい。
私はとりたてて動物が好き、というわけではないが、それなのになぜ、時間があると動物園に行こうとするのか。きっと、動物たちのあの「なげやり」な感じと、周囲に対する「うっとうしげな眼差し」が好きなのだ。
小さな子供を連れた母親のグループ、そろいの帽子をかぶった幼稚園児の遠足、手をつないだ若いカップル…。オリや囲いの外側はこのうえなくにぎやかで騒々しいのに、動物たちだけがシンとしてお尻を向けている。たまさか、見ている人たちに愛嬌をふりまく動物がいると、かえって痛々しさを感じてしまう。
長男が小さいころ、移動動物園に連れて行ったことがある。どこでやっていたのかも忘れたが、ぬかるんだ空き地にいくつかのオリが並べられたわびしげな動物園だった。サルのオリの前で熱心に中をのぞいていた長男。一匹のサルがオリの隙間から手をのばし、どういうつもりか長男のほっぺたをつかんだ。
「おっ…!」
長男が声を出したのか、私が出したのか、サルが発したのか、とにかく「おっ!」という音が聞こえた。しばし異様な静寂、その後、はじけるように響きわたった長男の泣き声。オリの奥に逃げるサル。以来、二十七才の現在まで、彼は動物園に足を向けたことはない。
生きることを保証されたかわりに、見られることを義務づけられた動物たち。彼らの哲学的にすら感じられるなげやりな態度と、聖人のごときうっとうしげな眼差しは、彼らの中に残る崇高な「野生」を死守している証しなのか。
「ふ? 人間? アホらし…」
と。
東京観光 地下鉄編・歌舞伎座編 2015年5月1日号
36文の29号文
無言で地下に向かうエスカレーター。みんな整然と左側に寄って、急ぐ人たちは右側をかけ降りてゆく。すると、頭上、後ろの方から、カンカンカンカンと耳障りな音が聞こえてくる。若い女の子が「つっかけ」の音を響かせながら降りてくるのだ。あ、「つっかけ」というのはすでに死語で、今の時代は「ミュール」という。念のため。そのつっかけを引きずりながら降りてくるものだから、靴音が異常に響く。おまけにひどく歩きにくそう。カンカンカンカン…、ひとり通り過ぎてホッとしていると、カンカンカンカン…、またひとり。イラっとして、その後ろ姿に呪いをかける。
「こけろ、こけろ、こけろ!」
そのとき、上りエスカレーターにいるオバさんと目があった。眉間にシワをよせて、カンカンと歩く女の子をにらんでいたオバさんの視線と、「こけろ!」と念ずる私の視線がからみあい、大都会東京で一瞬の連帯感を確認し、上下のエスカレーターで上と下に離れていった。
そして当然、何ごともなく、女の子たちはエスカレーターをカンカンカンカン降りて見えなくなったが。
地下鉄の階段をゼィゼィいいながら登り終えると、銀座・三越の交差点に出てしまった。昔とちがうわ。仕方なく、交差点の赤信号待ち時間を利用して、道の彼方を確かめ、青信号で道を渡り、反対側の彼方を確かめる。キョロキョロしながら交差点の青信号三回(←↓→)を使ってようやく、
「あった!」
三越のずっと向こう、なつかしき歌舞伎座が見えたのだった。
二十歳のころ、八ヶ月間ここに通った。夕食の弁当持参で五時から終演の九時半まで。歌舞伎座正面、左端にある急な階段を四階までかけ上がり、幕見席の向かい側に案内嬢の控室があったはずだ。細長い部屋、畳敷きにテーブルが並び、小さなロッカーから制服をだして着替え、休憩時間に弁当を食べ、誰かが置いていった週刊誌を読む。やけにうす暗い部屋だった。いや、私自身がうす暗かったのか。
歌舞伎座のにおいや雰囲気は昔とほとんど変わりなかった。食堂やみやげ物売り場がふえたりしていたが。
三十分の幕間(まくあい)に、着物姿の人のあいだや香水線香のような匂いのなかを一階、二階、ウロウロと歩き回る。昔一緒に働いていた人などいるはずもないのだが、どことなくそんな人を探して。そして三階。お客がくつろいでいるソファの奥に緞帳(どんちょう)のような厚いカーテン。四階の控室から三階の持ち場につくとき、このカーテンをすり抜けた。通路のかたすみ、二十歳の私がくすんだように立っていた案内所。今はちょっとトシのいった二人の案内嬢が、はち切れんばかりの笑顔で立っている。
ブザーが鳴って、二幕目の始まりが近いことを知らせる。
「ま、別にどーってことないわ」さっき買ったタイ焼きを持ち、ひとりごとをいって一階席にもどった。
「驚愕」研究所 2015年5月1日号
36文の28号文
毎月一回、仙台の「教研」というところに通っている。
私たちはいつも、きょうけん、キョーケンといっているが、「教研」とは「教学研究所」を略した言葉である。もっとも、「研究所」などとは名ばかりで、看板のかかった建物があるわけでもなんでもない。仙台の教務所(本山の出張所)の、雑然とした部屋の片隅で、イスや机をズルズルと引っぱりだして、勉強会をしているにすぎない。でも、そこに通っているということは、一応「教学研究所・研究生」なのだそうだ。
「マジ?教学研究所・研究生!スゲェ!」
というカンジなのである。
二十年以上も前、私の配偶者が仙台教研に通っていた。イヤ、「通う」というよりも「のめり込む」というほうがいいのかもしれない。喜々として、月に一回どころではなく出かけていた。いつも留守番ばかりの私は、教研とはそんなに楽しいところなのだろうかと、嫉妬のまなざしで、イソイソと車に乗り込む配偶者の後ろ姿をにらみつけていたものだ。
そんなことがあったから、教研への誘いがあったときは「あいよ」と、すぐに引き受けたのである。配偶者がイソイソと出かけていった教研とは、どんなものだろうかと。そんなに楽しい所かと。
開始早々、私のルンルン気分はみごと雲散霧消することになる。第一、仏教用語が皆目わからない。第二、静かすぎる。発言する人が少数に限られる。静寂はときとして、大いなるプレッシャーをうむ。第三、この仏教用語は、私が生きてゆくうえで、なにかの足しになるのかと、疑問ばかりおきる。第四、出席者が少ない、少なすぎる。その他。
年に数回、教研で『教行信証』を講義している講師の先生がこういわれた。
「『かるい気持ち』で教行信証を取り上げるならばやめたほうがいい」
「かるい気持ち」以外の何ものでもない気持ちで教研に通っていた私は、思わずかるい気持ちで先生に聞いた。
「『かるい気持ち』ってどういう気持ちなんですか? 逆に『おもい気持ち』とはどんな気持ちなんですか(笑)?」
「中途半端な気持ちで学ぶな、ということです(怒)!」
「……(涙)」
教研に通いはじめて、すでに一年以上になる。『教行信証・行の巻(ぎょうのまき)』、発題発表の順番がまわってくることにおそれおののき、「現代社会における問題提起」の順番に胸をしめつけられる日々である。「中途半端」な気持ちはそのままだが、「かるい気持ち」はどこへやら、どんどん気持ちは「おもく」なって沈んでゆくのだ。
配偶者が喜々として、イソイソとして通っていたのは、「教研」ではなかったの、もしかして?
ちょっと疑いだしている今日この頃。
※『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)
浄土真宗の宗祖・親鸞の主著
孤高の人 2015年4月14日号
36文の27号文
月下独酌 李白
花間 一壺の酒
独酌 相親しむ無し
杯を挙げて 明月をむかえ
影に対して 三人を成す
月既に 飲を解せず
影徒に 我が身に随う
暫く月と影を伴うて
行楽 須く春に及ぶべし
我歌えば 月 徘徊し
我舞えば 影 零乱す
酔時 同じく交歓し
酔後 各 分散す
永く無情の遊を結び
相期して 雲漢はるかなり
ある日の晩酌。
夫「おれは酒飲みなのに、一緒に酒を飲む友達もいない」
妻「ふ〜ん」
夫「いつも一人で飲んでる…」
妻「ふ〜ん、それで?」
夫「おれは孤高の酒飲みだ!」
「孤高」とは、ひとり他と離れて高い境地にある様子、なんだそうだ。そこで一番問題になるのは、どこが「高」くて、どこが「低」いか、だ。おのれ一人で高い境地にあると思いこんでいても、他の人からみれば、あの人、あんな所でなに気取ってんの?と、冷笑の的になる。自分で「孤高」と思っている人は、ハタからみると、ほとんどの場合が勘違い。軽いところで「浮き世離れ」「現実離れ」、ちょっとズレると「的はずれ」「浮き上がる」。本人はこれらのことに薄々気づいていても、ボク、一人で淋しいけど、悲しくなんかないモン、ボク、だいじょうぶだモンと、虚勢を張っているのが自称「孤高」の真の姿か?
そこいくと李白こそ本当の「孤高」の酒飲みかもしれない。
花咲く木陰に徳利を持ち出す。一緒に花見酒をする友もなく、杯を挙げて月を招き、影とともに三人となる。酒を飲めない月、私のマネばかりする影、その三人で春を楽しむ。私が歌えば月は動き、私が舞えば影がしたがう。酔っているときは三人で楽しみ、酔いつぶれてしまえばもう三人バラバラ。なんと清らかな関係だ。今度また天の川で会おうじゃないか。
ま、人嫌いのちょっとアブないおじさんっぽいところもあるが、感情のない月と影を相手にして、他人の悪口をいうでもなし、どこか毅然として潔い。「孤高」には、グチのない毅然とした姿が不可欠のようだ。
妻「ふ〜ん、『孤高』ってアンタ、どこが『高い』の?」
夫「あ、まちがった。高くない!低い!」
妻「ふ〜ん、『孤低』(あるいは『孤底』?)の酒飲みかい」
夫「酒は『孤低』だ。しかし、人生は『孤高』だ!」
妻「ふ〜ん…」
(以下、妻の独白)
だいたいにおいて常日頃、酒はオレの人生そのものだ! とかなんとかいっているくせに、酒は低くて人生は高いたぁ、どういうことさ? そういうのはね、「孤高」じゃなくて「孤立」っていうんだ。もうちょっといくと「孤立無援」そいでもって最後は「四面楚歌」。まぁ、お気の毒なことで(笑)。
常識 2015年4月7日号
36文の26号文
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品集から。
・・・・・
昔、京都の山中に、座禅と聖典の研究に精進する博識の僧が住んでいた。この僧のためにときおり野菜や米を運んでいた善良な猟師がいた。
ある日、この猟師に僧がこういった。
「長年わしは座禅と読経をつづけてまいった。その功徳かとも思われるが、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が毎晩、象に乗ってこの寺へお見えになる。今晩はここに泊まるがいい。仏様を拝むことができるから」
猟師は喜んで寺に泊まった。しかし、今夜あらわれる奇跡について、そんなことがあり得るだろうかと疑いはじめた……。
真夜中ちょっと前、東の方に星のような白い一点の光があらわれ、光はずんずん近づき、真っ白な象に乗った尊い普賢菩薩のお姿になり、まるで月光の山のようにそびえ立った。
僧は、普賢菩薩にむかって必死に経文を唱えだした。が、突然、猟師は手に弓をとり、光かがやく菩薩めがけて、長い矢をひょうと放った。矢はその胸元ふかく突きささった。たちまち、激しい雷鳴とともに白い光は消え、姿も見えなくなった。
「ああ、この恥知らずめ! なんというひどい悪いやつだ!」
僧は恥と絶望の涙を流した。猟師はきわめて静かにいった。
「……あなたは、清らかな生活を送っておられる学問のあるお坊様ですから、仏様をおがめる悟りもひらいておられるでしょう。けれども、暮らしのために殺生をしているような人間に、どうして尊いお姿をおがむ力などありましょうか。あなたがごらんになったものは普賢菩薩ではなく、あなたを殺そうとする化けものにちがいありません」
……夜明けにしらべてみると、猟師の矢を突き立てた大きな狸の死骸があった……。
僧は博識で信心深い人であったが、狸に容易にだまされてしまった。猟師は無学で信心のない男だったが、たしかな常識をそなえていた。そしてこの生まれつきの知恵だけによって、危険な幻影を見破り、それを打ち砕くことができたのである。
・・・・・
なんと、この作品のタイトルは『常識(Common Sense)』 。
往々にして、博識の僧というは常識に欠けるものらしい。博識の僧に限らず、寺に生まれ寺に育ち、勉学に励む人は、どうも世間の常識からはずれていることが多い。自分の知識や教化者としての立場を意識しすぎて、習いおぼえた仏教語でもって世間をおしはかろうとするものだから、ごく普通のものの見方ができなくなってしまうのだ。
「目からウロコが落ちる」ではなく、「目にウロコがはりつく」である。一般的に「普賢菩薩」が象に乗ってあらわれることはまずない。(もっとも、現代では狸が化けることもまずないが)一応、疑ってみるのが常識だが、自分がつんだ功徳のおかげでそれが見えると、思いこんでしまうのがその証拠。
♪ そんなのじょーしきー
タッタタラリラ
ピーヒャラピーヒャラ
おどるポンポコリで……
「アシュラー」(笑) 2015年3月31日号
36文の25号文
昔も今も仏教用語は苦手だが、そのネーミングセンスの素晴らしさには感動する。
「観音菩薩」とか「勢至菩薩」で有名な「菩薩(ぼさつ)」。菩薩とは、覚りを得て仏になろうと頑張っている修行者のこと。
当然のことながら、この菩薩さんたちの苦労は並大抵のことではない。まず、仏になるために五十二もの階位(段階)がある。その下から四十一〜五十位の間を「十地(じゅうじ)」という。もう少しで仏になれるワクワクドキドキの階位なのだ。この十地も十の階位にわけられ、その下から七番目を「七地」(しちじ)という。必死で修行し、ふと見あげると上にめざすべき先輩諸菩薩の姿もなく、周囲に救うべき衆生の影もみえない。ああ、私もやっとここまで来ることができたと、気がゆるんだそのすき間の落とし穴。つまり菩薩修行の「停滞期」というか「倦怠期」。それを「七地沈空の難(しちじちんくうのなん)」あるいは「七地沈空の菩薩」というそうな。どうしようもない無力感におそわれるのだろうな。
それにしても「空に沈む」とは何といい得て妙なたとえであろうか。我々一般人には、菩薩さんがにこやかに宙に浮いて、「おいでおいで」しているイメージがありこそすれ、虚空(こくう)に沈み込んでゆく菩薩など想像だにできない。だが心配は無用、この沈み込んでゆく菩薩をみかねた十万の諸仏が、皆で励まし、引っ張りあげてくれるというのだからまずはひと安心。
数ある菩薩のなかで「敗(やぶ)れる」「壊(こわ)れる」と、最悪の表現をされたのが「敗懐(はいえ)の菩薩」。この菩薩は菩薩修行の「落ちこぼれ」らしい。今風にいうなら菩薩の「負け組」といったところか。菩薩とはほんの名ばかりで、力もなく求道の意志も弱く、名利に深く執着し、心はまったく素直でなく、他人の豊かさをねたみ、自己中心的で仏の教えを信じようとせず、仏の言葉や文句をただ楽しむだけで実行しようという気すらない。そんな菩薩を「敗懐の菩薩」という。
いや、これは我々一般人とどこも違ってはいない。まるで一般人の姿そのもの。菩薩という名がなければ、あちこちどこにでもころがっているではないか。ホント、「敗懐の菩薩」にはものすごい親近感をおぼえる。そして、この「敗懐の菩薩」でさえも、仏になる道があるというのだから何とぞご心配なく。
いま、若い人たちの間で「仏像」がブームなのだそうだ。
「仏様の姿に萌える」とか、阿修羅像に魅せられた女性たちを「アシュラー」と呼ぶとか、仏像好きの女性が「仏像ガール」を名乗るとか、現代の仏像、菩薩像はジャニーズのイケメンと同等扱い。いやはや、もうニガ笑い…。
弥勒菩薩に代表される美しい姿だけが菩薩ではない。自力でどっぷりと沈み込んでしまった菩薩や、半分壊れてしまった菩薩、人間の姿をそのままうつし出した菩薩さんたちがいることをどうぞお忘れなく。
犬とおじさん 2015年3月24日号
36文の24号文
私は車の運転席に座って、交差点の信号が青に変わるのを待っていた。うらうらとした陽ざしのなか、横断歩道をおじさんが通ってゆく。自転車をギーコギーコこぎながら、ゆっくりと通ってゆく。自転車の前のカゴには、犬が乗っている。カゴのふちに前足をかけ、犬はキャンキャンほえる。真っ白い長い毛を風になびかせ、正面から圧力をかけたような顔は、鼻が一番低くて、それでも春の陽ざしをうけてピカピカと黒くかがやく。
横断歩道の中ほどまで来たとき、キャンキャンとほえていた白い犬は、自転車のカゴから真っ逆さまに落ちた。横断歩道の白い線のうえに落ちた。私は運転席から「あっ」と、声をあげる。
人はだれでも、胸のなかに深い闇をかかえる。どんなに明るい人でも、どんなにノー天気な人でも、暗い闇をかかえる。悲しみだったり、憎しみだったり、恨みだったり、思うようにいかないことだったり、年老いることだったり、愛だったり。一度のぞくと、あまりの暗さ、深さに目眩(めまい)を感じる。だから大抵の場合、無視するか、見なかったことにする。「闇」にフタをして、釘を打ちつけ厳重に梱包しておく。だって、そんなものにまともに向きあっていたら、楽しくなんか生きてゆけない。それでも梱包されたすき間から「闇」はもれてくる。それを私たちは「ストレス」という便利な言葉に置きかえる。
思えばむかし、ストレスなんて言葉はなかった。「苦悩」とか「懊悩(おうのう)」とか「憂鬱(ゆううつ)」とか、闇をみつめるに耐えうるような、すばらしく頼りがいのある言葉が存在した。「癒し」という軽い言葉ではゴマカシきれない、凛とした言葉があった。でも今、そんな言葉はすっかり姿を消して、「ストレス」ばかりがあふれている。旅に出かけ、買い物をし、おいしいものを食べ、それでストレスを消し去ったつもりでいる。ところがどっこい、そんなことで容易に消えないのが、「闇」なのだ。ストレス解消に走りまわる私たちを、哀れむように悲しむように、「闇」は私たちのなかでふくれあがる。
グシャ!
自転車のカゴから落ちた白い犬は、音をたてた。あるいは白い犬が声を出したのかもしれない。はっきり聞こえたわけではないが、グシャ!か、グッ!か、ムギュッ!か、そんな音をたてた。自転車のおじさんはあわてふためいて自転車から降りた。それでもきちんと自転車のスタンドをたてた。犬を抱きあげ、頬ずりをする。そこで「渡れ」の青信号が点滅しはじめる。おじさんは右手に犬、左手に自転車、さっきとは大違いの早さで横断歩道を駆けぬけてゆく。
そのとき正面の信号が青に変わった。彼らに未練を残しつつ、私は仕方なく車を発進させた。
人がかかえる闇と、自転車から落ちた白い犬は、なんの関わりもない。ただ、犬がグシャッと落ちた瞬間、私は暗く深い闇に落ちてゆく自分を連想した。ただそれだけの話だが……。
ふかきみのりに 2015年3月17日号
36文の23号文
深きみのりに
あいまつる 身の幸(さち)
なにに たとうべき
(真宗宗歌より)
「真宗宗歌(しんしゅうしゅうか)」と「恩徳讃(おんどくさん)」という歌がある。たいてい宗門の研修会や会議でうたわれる。一般の寺院でも法座の始まる前は「真宗宗歌」、済んだあとには「恩徳讃」、みんな手を合わせてうたっている。
本山の会議等でも、メンバーが顔をそろえると、
「それでは皆さん、時間になりましたので、真宗宗歌を……」
そのかけ声に、皆いっせいにイスをガタガタいわせて立ちあがり、「なまんだぁ」とも、「なまんだぶぅ」ともつかぬことをつぶやきながら、ある一定方向を向き(これが最大のポイントなのだが)、
「ふか〜きみのりにぃ〜……」と、うたいはじめる。会議が済み、ヤレヤレというあたりで、
「それでは時間がきましたので、恩徳讃を……」
またかけ声でいっせいに立ちあがり、一定方向を向き、
「にょ〜らいだいひの(如来大悲)おんど〜くは〜(恩徳は)」これでようやく会議は終了、となるのだ。
いまでは、会議の始業のベル、終業のベルぐらいにしか思わないが、これを初めて経験したときには、びっくりした。何しろ、立ちあがってその場でうたうのではない。会議をしている部屋の「あらぬ方向」に、皆一斉にクルリとふり向くのだ。後になって、その「あらぬ方向」が、阿弥陀仏を安置している阿弥陀堂と、親鸞の木像を安置している御影堂(ごえいどう)(アラ、もったいなや)だと知った。もっとも、そのどちらに向かって歌をうたっているのか定かではないが。
ある時、ホテルの大広間で会議をしたことがあった。燦然と光り輝くシャンデリアのもと、黒い略衣に輪袈裟(わげさ)をつけた人たちが集まり、場所的にはなはだ似つかわしくない雰囲気となる。もしかして、ここでもやるか? 当然、私の不安は的中した。
「ええっと、ここからですと、両堂はあちらの方角となります!」
若い宗務職員が大広間の出入り口の方をピッと指さした。皆一斉に、「出入り口」に向かってうたい始めた。ああ、何かむなしい。
またある時、いつもとは違う会場で会議があった。部屋に入り、イスに座り、私は考えた。両堂はどっちの方向だ? 頭のなかで方向、向きをシミュレーションし、立ちあがったらうしろを向けばいいな、よし大丈夫。ややあっていつものごとく、
「それでは真宗宗歌を……」
私はおもむろに立ちあがり、四分の三ほど後ろを向きかけたその時、ほかの人たちの動きがおかしい! 皆静かに九十度の角度で体を動かし、部屋の正面を向いているだけなのだ。
「へ?なんで?両堂は確かにあっちの方向なのに、私はそんなに方向オンチか?」
私はごまかしのカラ咳をしながら、なんとか体勢を立て直す。小さく咳払いをして皆と一緒に正面を向く。そこではじめてわかったのだ。部屋の正面には「お内仏」が置かれていたのだ。
なんだよ、それもありかよ!
光陰の矢の速度 2015年3月10日号
36文の22号文
四年が過ぎ去る、この異常な早さ!なぜこんなに早いのか、調べてみると哲学的、生物学的にいろいろあるらしい。
哲学的観点から。
「生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢に反比例する。例えば、五十歳の人間にとって、一年の長さは人生の五十分の一ほどであるが、五歳の人間にとっては五分の一に相当する。よって五十歳の人間にとっての十年間は、五歳の人間にとっての一年間にあたり、五歳の人間の一日が五十歳の人間の十日にあたる」
いまいちよくわからないこれは「ジャネーの法則」というのだそうだ。「じゃぁね」と、時間は過ぎゆく…なんちゃって。
生物学的な観点から。
「ヒトの脳は新しい情報を受け取ると、その情報を理解しやすい形に整理しなおす。すでになじみのある情報を処理するときは、それほど時間がかからないが、新しい情報の処理は時間がかかる。これによって時が長く感じられるのではないか。つまり、歳を重ねて新しい情報が少なくなると、時の経つのが早く感じるようになる」
五歳の子供と五十歳の人の一年間は物理的には同じだが、五歳の子供は日々新しい経験ばかりが襲いかかってくる。おまけに時間の概念がまだ希薄なので、長いも短いもあまり気にしない。ところが、六十歳にもなると、新しい経験なぞ、滅多に入ってくるものではない。ご飯を三回食べてお風呂に入ると一日が終わる。おまけに経験値が豊富なだけに、困ったことがおきても見なかったことにして回避する方法をごまんと知っている。
「印象に残る出来事が多い時間や、恐怖を伴う時間は長く感じられる」
四年前の地震と津波。私のヤワな思考では到底処理しきれない膨大な情報が脳髄を襲ってきた。あのときは余震と寒さと恐怖で夜明けがこないんじゃないかと思うほど、夜が長かった。人生で一番長い夜だったかもしれない。そしてその後の数ヶ月は何をやっていたのか、断片的な記憶しかない。見なかったことにして回避する、私の大得意な方法も、このときばかりは無駄だった。こんなことで時間を長く感じられるなんて、もう二度とごめん。
「我々は自分の生きてきた時間、つまり年齢を実感として把握していない。大多数の人が『私はまだまだ若い』と思っているはずで、十年前の出来事と二十年前の出来事の『古さ』を区別することができない」
この前、久しぶりに三度目のギックリ腰をやってしまった。一回目は十年ほど前か。二回目は三年ほど前。そして今回。やばい! 間隔が短くなっている。しみじみ思う。身体は正直だ。頭の中身はほんとにバカだな。
「原稿できた?」
「おばちゃん、原稿できた?」
今月は私だけが書けていない。今までは「原稿できた?」コールは連れ合い一人だったが、うるさいヤツがもう一人加わった。仕方なくコルセットの腰をなでなで、パソコンに向かっている。
それにしても、ひと月たつのが早すぎる…。
「人」 2015年3月3日号
36文の21号文
♪ 長い棒と短い棒
支えあったら人になる
支えることで人を知る
支えられて人となる
‥‥
支えるから人なんだ ♪
というACでおなじみの歌が頻繁にテレビから流れてくる。
活字ではそうでもないが、手書きの場合、「人」という字、私にはどうみても「支えあう」というより、長い棒が一方的かつ全面的に、短い棒へ寄りかかっているようにしかみえない。短い棒がその重みに耐えかねて、もぉ、やだ! とばかりに逃げ出すと、長い棒はコテンと倒れ、ははは、ざまぁみろ、という場面すら想像するのだが。
もともと「人」という字はひとりの人間が立っている姿を左側面から描いたものらしい。ちなみに入り口の「入」という字は長い方が短い方を押し倒して入り口に向かうような格好だが、そうではなく、入り口の形「 < 」からきているとのこと。またまたちなみに「比べる」の「比」は、ふたりの人が並んでいる姿を右側面から描いたもの。
「『人』という字は互いに支えあってヒトになる」
そんな説教をしたのは、かの有名なテレビドラマ「三年B組 金八先生」だった。それがいつの間にか世間、というより日本の常識みたいになってしまった。
どんなにムリをしても、人はひとりでは生きてゆけない。確かに「支えあう」ことは必要だが、その前に、それぞれの「棒」がキチンと自力で立ち上がる力をもっていなければ。そうでないと、「支えあう」ことが単なる「もたれあい」になってしまう。
「人」の語源は立ち上がっているひとりの人。その意味はかなり大きい。
そして、こんな文をインターネットで見つけた。
公園でのんびり昼食をとっていたら、子供たちが
「長〜いぼうと短いぼう♪支え〜あったら人になる♪」
を検証してた。
背の高い子が小さい子に寄りかかるかたちを何度も試しているうち、小さい子が
「もうやだ!! 『人』でなくていい!!」
と泣き出した。そしたらみんな
「支え合わないと『人』にならないだろ〜」
と責め始めたが、ひとりが
「あ!! おれ、発見した!!」と叫んで、足を肩幅に広げて
「ひとりでも『人』になるじゃん!!!」
とやると、みんな真似して足広げてた。
「結論!! 『人は』ひとりの方が楽!! ふたりになると不公平になる!!」
と言って
「人!! 人!! 人!!」
と人ポーズのまま公園を練り歩いてた。
厳冬の記 2015年2月23日号
36文の20号文
「ぶ、ぶぇくしょぉおんん!」正確に文字で表すと、こうなる。「ふぇ、ふぇ、ふぇくしょん!」こうとも表す。クシュン!とかいう可愛らしいくしゃみではなく、色気も女らしさの片鱗もない壮絶なくしゃみがたて続けに出た
「ぶ、ぶぇくしょぉおんん!」正確に文字で表すと、こうなる。「ふぇ、ふぇ、ふぇくしょん!」こうとも表す。クシュン!とかいう可愛らしいくしゃみではなく、色気も女らしさの片鱗もない壮絶なくしゃみがたて続けに出た。
昔、息子が赤ん坊のとき、おばあちゃんがこの手のくしゃみをして、眠っていた赤ん坊が泣き出したことがある。赤ん坊をあやしつつ、私は年をとっても、こんなくしゃみは絶対しないぞ、そう心に誓った。ところがまぁ、現実はこんなもん‥‥。
連日の寒さで鼻カゼをひいてしまった。その翌々日、お風呂に入って身体を温めたら、気分がよくなるだろうと、湯船にお湯を張り始めたら、
「ピロピロピロロン!ボイラーに揺れを感じました。油漏れがないか、確認して下さい!」
揺れもないし、あちこち見回しても、これといって変化はない。しばらくしてから給湯を開始すると、
「ピロピロピロロン!ボイラーに‥‥」
何度くり返しても同様。先月の漏電・停電騒ぎが頭をよぎる。修理の出費がイタかったのだ。この給湯ボイラーもかなり古い。取り替えるとなると、またもや出費がイタいぞ。
それから数日後、連れ合いが出かけようと車のエンジンをかけた。
「キュルキュルキュルン、カッカッカッ‥‥」
連れ合いがうなだれて家に入ってきた。エンジンがかからないのである。しばらく時間をおいて試してみたが、同様。またまた頭の中のレジスターがチーンと金額をはじき出す。ふぇえ、また出費。
暗くなってから自動車屋さんが見に来てくれた。バッテリーが古いうえに寒さで弱ってしまったとのこと。バッテリーを交換して帰っていった。
幸いなことに鼻カゼもひどくならずに済み、ボイラーの方も翌日もとに戻ってくれた。寒さで配管の一部が凍っていたのではないかと思う(鼻カゼではなくボイラーのこと・笑)。
それでも、いつまたあの「ピロピロピロロン」が聞こえてくるかわからず、シャワーを使っているときに突然、冷たい水になったら、心臓マヒで死んじゃう! という恐怖はぬぐいきれない。
ボイラーも新しいものに取り替えた方がいいのか。ああ、頭の中のレジスターがチーンと鳴った。
数日後、パソコンを買い替え、ウキウキ、ワクワクで使ってみたら、古いパソコンで使っていたソフトのほとんどが使えない。ゆえに最新型のパソコンに合うソフトを買いそろえなければならない。頭の中のレジスター、ついに爆発。ついでだから、これも寒さのせいにしてしまえ。
この冬の厳しさは、老朽化してきたこの身と設備にはかなりのダメージだった。設備は買い替えることができるけど、この身は如何ともしがたい。せめて、くしゃみぐらい女らしくしなければ‥‥。
昨日 今日 明日 2015年2月17日号
36文の19号文
ザァー、メッチャメッチャ、
ガタン、ザァー、メッチャ…
幼い頃、しんとした寺に響いていた「自動編み物機」の音。四十年以上も前の編み機は、「自動」という名前とは裏腹に、そのほとんどが「手動」だった。まるではた織りのよう。暇さえあると、母は編み機の前に座り、背中を少しまるめて編み物をしていた。
ザァーッと一段編み、ギザギザのへらでメッチャメッチャと編み目をおしつけ、ガタンと編み目を返す。これでようやく一段目を編みあげる。母のそばで、編み機に吸い取られ、小さくなってゆく毛糸玉を見るのが好きだった。編み機からつながった毛糸玉は、ザァーっと音がするたび、楽しげにクルクル跳びはね、そこに飼い猫がじゃれつく。母は猫を外に出すよう私にいいつけ、私は猫と一緒に毛糸玉にじゃれつきたいのに、しかたなく猫をつまみ出す。静かな部屋に編み機の音がつづき、毛糸玉だけが、誇らしげにひとりで遊ぶ。
編み棒を動かしながら、そんな昔のことを思い出していた。二十年ぶりで毛糸を引っぱりだし、編み物をはじめた。出産祝いにもらったときは真っ白だった、今はうす茶色の毛糸。息子たちのセーターやマフラーを編んだ残りの毛糸。裏編み、表編み、ゴム編み、目の増やし方、減らし方。こんがらがった糸をほどくように、少しずつ、母の姿とともによみがえってくる。気がつくと、マフラー四本、帽子六個、いつの間にかできていた。これから暖かな春が来るというのに。
真宗は、未来をすくうのではなく、過去をすくう
(藤本正樹)
あした、あさって、一年後、十年後、私は生きているのだろうか。不幸の数はいくつだろうか。幸せなんてあるのだろうか。これからくるかもしれない不幸に備え、今日という日はあしたへの「思い出づくり」。菓子箱に放り込まれた写真のような、思い出ばかりがあふれていって、死ぬまでずっと、今日はあしたの準備期間。これでは永遠に、ほんとの今日はやってこない。
未来は刻々と現在(いま)になるのに。現在はすぐに過去へと流れるのに。
澱みにたまるオリのように喜びや悲しみや苦しみが、ただむなしく渦を巻くだけ。過去がすくわれなければ、現在もすくわれない。現在がすくわれなければ、当然、未来もくらい。でも私は、未来への不安におしつぶされそうになって、現在を忘れ、過去を失う。
喜びや悲しみや苦しみ、私の過去の何か一つでも抜けると、今の私はここにいない。過去、現在にささえられて私があるのに。あした。あした。あしたばっかりに気をとられ、忘れたふりをした、みなかったことにした私の背負いきれない過去たち、認めきれない現在たち。
編み目のむこうに母が笑う。ひと目ひと目が一段になって、一段が積み重なってセーターになる。ひと目が大事、一段が大事、ぜんぶ大事、いらないものはなにもない、と。
喧噪の二月 2015年2月10日号
36文の18号文
スーパーの出入り口に「ひなまつり」の文字が踊っていた。へ? スーパーの中ではバレンタインのチョコレートが山積みになっていたのに。次はお雛様か…。ちょっと前までは「恵方巻き」が山積みだったのにさ。
とにかく一年中忙しい。一月は正月にお節に初売り。二月は恵方巻きにバレンタインデー。三月は雛まつり。四月は春爛漫のお花見。五月はゴールデンウィークの狂乱。六月、七月ナシ。八月盆休みの大移動。九月、十月、十一月、紅葉の行楽シーズン。十二月、クリスマスの異様な盛り上がり。引き続いての年の暮れ。とにかく我々大衆は年がら年中、あっちからもこっちからもあおられっぱなし。
さっきテレビのニュースでやっていたが、ここ十年、バレンタインデーだけは株価が必ず上がるのだそうだ。その経済効果は一三〇〇億円。どうやら浮かれるのは、チョコレート会社やデパートだけではないようだ。節分に恵方巻きを食べる、というのもつい二、三年前からのような気がする。これはコンビニ業界の陰謀だと、私は秘かに思っている。あんなぶっとい太巻き一本、無言で食べられるかい。
年を越すとすぐに雛人形の宣伝が始まる。いつも思うのだが、雛人形屋さんは三月三日の一日だけでどうやって一年間を乗り切るのだろうか?
「娘さんが二人、三人といらっしゃるのなら、そのそれぞれの娘さんにお雛様を持たせてあげるのが本当なのです」
って、雛人形屋さんが自信たっぷりにいっていたけど、さもありなん。雛まつり一日だけで一年間を乗り切るのは大変なことだもんな。
雛の節句になると思い出す。おじいちゃんとおばあちゃんが古くて品のいいお雛様を並べ、お茶やお菓子を供え、
「よくいらっしゃいました…」
二人で雛人形に話しかけていたのを。あの頃は苦笑まじりで見ていたけど、今にして思うと、各業界からあおられない、本当の雛まつりだったのかな。
クリスマスだって、ずっと昔はキャバレーで騒ぐお父さんたちだけのもの、と相場が決まっていた。例外にもれず、私の父もへべれけに酔っぱらって帰ってきた。ただし、売れ残りの大きなケーキは必ず抱えて。生クリームなんて高嶺の花。バタークリームの脂っこいヤツ。それもフラフラ抱えてくる時点で片寄ってしまうから、ちょっと無惨な格好だったが。それでもそれはすごいご馳走だったっけ。
別に盛り上がっているイベントに水を差す気はないし、景気回復になるのなら、お金もどんどん使うべし。ただ、マスコミやら各関係業界のあおり方が気に入らない。バレンタインデーの「義理チョコ」を考え出した人は確かにすごいと思うが、今年は「女子チョコ」「自分チョコ」まであるという。こうなるとあと残るのは「ペットチョコ」か。いやまだあるぞ、「仏前チョコ」に「御霊前チョコ」ってのはどうだ?
今年の雛の節句、古いお雛様を出してみようか…。
ふとんがふっとんだ 2015年2月3日号
36文の17号文
ふとんがふっとんだ
乱雑に並べられた布団、場所は本堂のような、そうでないような。もうすぐお客が来るというのにシーツが見つからない、枕が見当たらない。布団に引っかかりながら、あわてふためく私。ああ、お客はすぐそこまで来ているというに‥‥!
というよくありがちな夢から覚めて、思ったよりも「布団」のことがプレッシャーになっていたんだと、気がついた。
屋根裏部屋片づけの過程で、布団という壁が立ちふさがる。この際だからと、家中の不必要な布団を積み上げてみた。いや、まさしく「壁」。うずたかい布団の壁である。とりあえず使えそうな布団を四組だけ押し入れに格納し、あとは腕を組み、ただただ途方にくれて布団の壁を見あげるのみ。
一昨年の夏だったろうか、裏玄関に元気のいいオバさんが飛び込んできた。
「使っていない布団があったら引き取らせてもらいたい」
要約するとこういうことだが、秋田訛がひどくてよく聞き取れない。
「ここら辺のお寺をずっとまわっているが、使わない布団はたくさんある。しかしながら年寄りがいるので自分の思うようにはならい、というお嫁さんが多い。こちらもそうなのか」
要約するとこうだが、玄関脇にはおばあちゃんの部屋があるので、目くばせをし、後半部分はヒソヒソ声になっていた。
「まったくもってその通り。今すぐは無理だが、そのうちお願いするかもしれない。で、古い布団は如何にするのか?」
「座布団にしたい。最近の座布団は化繊ばかりで、本当の綿が入った座布団がほしいというお客さんが多いのである。ゆえに使わない布団を引き取りたい」
しごくもっともと納得し、名刺だけを受け取って年月が過ぎた。
二、三十枚はあろうかという布団の前で、以前にもらっていた名刺のオバさんに来てもらおうかと思い始めていた。ついでに二組ぐらい布団の打ち直しをしてもらってもいいし。
そこで、どんな布団屋さんなのだろうとインターネットで調べてみることにした。以前にも一度調べてみたが、そのときあった布団屋さんのホームページが見つからない。ふむ、おかしい‥‥。検索を進めてゆくと、あらま‥‥!
パソコンの画面に出てくるのは消費者庁からのお知らせばかり。
『平成二十二年一月二十九日
訪問販売業者○○○に対する
業務停止命令について』
何度も断っているにもかかわらず、強引な勧誘によって高額な布団の打ち直しを契約させていたとのこと。つまり、ウチに来た時期が強引な契約の真っ最中ということになる。
あぶねぇ、あぶねぇ。過去に一万円もする味噌や、アフリカの子どもに愛の手を、というコーヒーを買った前歴がある私には二度と踏んではならぬ轍なのである。それにしてもあのオバさん、そんなに強引な人には見えなかったが。
あ、布団? 布団はいまだに書院造りの奥座敷に積みあがっているさ。
極寒の地 2015年1月24日号
36文の16号文
一月某日、夜の全国ニュース。
「本日、盛岡市郊外で、朝の最低気温がマイナス二十二度を記録しました…」
というナレーションとともに、少しばかり凍った「高松の池」(注・地元では白鳥の飛来地、桜の名所として有名)で寒そうに首を縮める白鳥の映像が映しだされていた。こりゃぁ、盛岡がマイナス二十二度だと思われて、どっかからお見舞いの電話が来たりして…、冗談でそういっていた矢先、来た来た、お見舞いのメールが。
「そこは日本か?凍ってないか?」
「ありえなーい!マイナス二十二度って、どんだけよ?」
マイナス二十二度を記録したのは盛岡から車で二十分ほどの「藪川」という山あいの村。本州で一番寒い場所といわれている。その藪川は以前、玉山村(注・石川啄木の生地、 渋民がある所で有名)だったが、近年の町村合併で盛岡市になった。ゆえに、全国的には「盛岡市郊外」となるのである。そのとき盛岡の最低気温はマイナス十一度だった。藪川はいつも盛岡より十度ほど低い。ちなみに、藪川で観測史上一番の寒さは一九四五年のマイナス三十五度だそうだ。
盛岡も本州の県庁所在地で一番寒いといわれている。天気予報をみると、札幌よりも気温が低いことなどザラにあるし。
以前、静岡の人が遊びに来たことがあるが、
「部屋以外は寒いんですね。廊下なんかも…びっくりした…」
こういわれてはじめて気がついた。今まで何とも思っていなかったが、確かに部屋から出ると寒い(注・寺という構造上、建物全体を暖めるということは不可能に近い)。廊下やトイレ、浴室は外と同じである。だから私はひと冬、そのままで外に出られるような格好をしている。朝から晩まで、コート状のぶ厚いモノを着ているのだ。東京から帰省した息子が、起きぬけにシャワーなどを浴びようとすると、
「バカタレ!盛岡で、しかもこの風呂場で、朝にシャワーを浴びるなどと、凍死したいのか!」そう一喝しなければならない。
それでも今ごろの時期になると、身体も寒さに慣れてくる。朝起きたときの室温(注・当然、ストーブのタイマーをつけているわけだが)、戸を開けたときの外気のツンとした固まりぐあい、箒を持つ手の冷たさ、その他諸々の感覚で、その朝の最低気温を察知できるようになる。今日のこの寒さ、ふた桁はない、楽勝…、というふうに。
だから、東京で積雪三㎝、最低気温零度、交通機関マヒ、などというニュースをみると、
「ブヒヒヒ…、軟弱都会人め、ざまぁ…(以下省略)」
と、盛岡市民のほとんど全員が思っているにちがいない(注・もしかしたら思っているのは私と配偶者だけかもしれないが)。
少しずつ日が長くなり、日射しが強くなってくる。冬の寒さに耐えに耐えたご褒美として、盛岡の春は四月下旬、水仙、レンギョウ、梅、桜、花々を伴って一斉にやってくる。それまでは、今しばし…。
ケイタイ電話 2015年1月17日号
36文の15号文
携帯電話の「取扱説明書」は、
なぜあんなにぶ厚いのか?
いやぁ、携帯電話、新しいのを買ったんですよ。
今回買い換える時、始めて知ったんですけど、「らくらくフォン」という携帯電話を四年半も使っていたんですね。今の「らくらくフォン」は姿・形が結構よくなっているんですが、私のは「初代らくらくフォン」だったので、まぁ、なんというか…。
いや、確かに文字は大きくて読みやすいし、操作も非常に簡単で扱いやすかったんですけどね。
ただ、私より上の年代は、この機種を使っている人が多いんですよ。病院の待合室で携帯の画面をにらみつけているオジさん、研修会でさりげなく机の上に携帯を置いているオバさん、病室のベッドで家に電話をかけているオジさん、もう皆、色はちがえど同じ機種。ヘタをすると流れ出てくる着信音まで同じ、という事態まであったのです。もちろん私は即、着信音を変えましたが。
先日も、あるお芝居を見に行ったのですが、開演前にアナウンスがあるのです。
「お客様にお願い致します。上演中は携帯電話等の電源をお切りくださいませ」
そこで観客一斉にバッグから携帯を出して電源を切るんですが、私の両隣のオバさん、私と同じ機種でした。それも最新型のもの。同じしぐさで携帯を開け、同じしぐさで携帯をパチンと閉じる。なんかもう、同じ種類のオバさんにみられたくない一心で、バッグのなかでゴソゴソやりました。以来、若い人が持つような格好いい携帯がほしい、そればかり考えていたんですよ。
そして機会があるたびに携帯電話売り場で品定めをし、家に帰ってからインターネットで各機種の機能を見くらべ、ようやく買うものが決まったのです。勇んで家電量販店の携帯電話売り場へ行くと、係の者はインフルエンザで休んでおりますので、ご契約ができませんだと。いや、そんなことに負けるモノかと、雪のなか、ほかの店へ…。
ようやく買いました、携帯電話を!
これは「携帯」というよりも「ケイタイ」とカタカナで書くにふさわしく、十センチ×五センチ厚さ一センチと、かなり格好いいのです。まえの携帯が「ダンゴムシ?」のイメージなら、今回は「ミズスマシ!」といったところでしょうか。海外からだって電話をかけられるんですよ。ニューヨークの街角から「ハロー、ハロー!」ってできるんです。もっとも、外国へ行くことはほとんどありませんが。
シンプルな機能も気に入っています。どうせ私はケイタイでテレビを見たり、お金を払ったりはしませんので、それらの機能はいりません。ほんとは電話がかかってくることもほとんどありませんので、「着信」の機能もいらないぐらいですが…。
ほれぼれするような美しい待受画面。文字も大きくできるので、とても読みやすいのです。ただ、文字以外の各種機能を表すマークがとても小さい。故にケイタイの画面を、老眼鏡をかけ天眼鏡でのぞく、という異常事態になっているのです。
みなさぁーん、「自己を知る」ということは、ものすごーく大事なことですよ。
謹賀新年 2015年1月10日号
36文の14号文
今年もなんとか無事に年を越した。いや、年を越したという感慨もなく、フツーに淡々と一晩があけた、というべきか。
暮れも最低限のことだけをこなし、大晦日の夕餉も最低限の献立ですませた。あとはお風呂に入って寝るだけ。例年ならミカンでも食べながらテレビを見る所だが、この冬はミカンが高い。仕方なくミカンなしでテレビを見る。これがまた、全然つまらない。昔、おじいちゃんが最近の「紅白」は面白くない、そういって大あくびをしていたのを思い出し、今更ながらおじいちゃんにまったくの同感。
これといってすることもないので、部屋の電気を消し、布団をかぶる。以前は寝ついた頃に隣の除夜の鐘が大音量で鳴り、びっくりして飛び起きたものだが、ここ数年それもない。
ああ、昔の大晦日はウキウキと楽しかったのになぁ…。
小さい頃の「紅白歌合戦」は一大イベントだった気がする。出場歌手の順番と採点表が書かれた折り込み広告をコタツにひろげ、鉛筆を持ってマジメに見ていた。早くお風呂に入りなさい、とせかされ、歌手の順番とにらめっこをしながら、それこそカラスの行水ですませていた。子供心に、森進一の「花と蝶」に聞き惚れた記憶がある。その後だいぶたって、カラーテレビが家にきた。父がどうしても「紅白」をカラーで見たい!と頑張ったらしい。大晦日といえば「紅白」、「紅白」といえば大晦日、まさにそんな感じだった。
近所のおばさんや家族総出の餅つき。蒸し上がる餅米の湯気や匂い、杵をドスンと振りおろすたびに、勝手口のガラス戸がビリビリする音。黒豆入りののし餅。水を張った大鍋にきざんである雑煮用の人参と大根。凍りついた人参と大根を取り出す元旦の朝。次々とやってくる親戚。年始の挨拶がすんでサイフを出す叔父さん。わっ、お年玉!
「由美ちゃん、すまないけどタバコ買ってきてくれ」あのガッカリ感は生涯忘れない。
高校三年、「紅白」を見終わってから、大学受験の神頼みで初詣に行ったこともある。キンキンの寒さのなか、本殿への参道はロープで区切られ、足踏みしながらロープの向こう側へ行ける順番を待っていた。立ち並ぶ夜店、人の吐く白い息。どこか非日常の空間に、お寺のお盆みたいなものか、そんな風に一人納得していた。
大学四年のとき、卒論なんかそっちのけで大晦日に行われる京都・八坂神社の「おけら参り」に繰り出した。時間つぶしに入った喫茶店のテレビで「レコード大賞」を見る。大賞、森進一の「襟裳岬」。ここでも森進一だ。八坂神社で小さな縄に「おけら火」をもらい、消えないように縄をクルクル回し、ノドをいがらっぽくしながら深夜の京都を堪能した。
いつからだろう、年末年始がこんなにも億劫だと感じるようになったのは。でも、どこかで新しい自分を生き直してみたい。
来年の元旦は、連れ合いと二人向き合って、座敷の座布団に座り、気恥ずかしいほどの「明けましておめでとう」をやってみようか?
我は悲の器なり 2014年12月28日号
36文の13号文
我は悲の器なり
源信「往生要集」
秋葉原で起きた痛ましい事件の直後、ネット上にはすごい数の写真がばらまかれた。その場に居合わせた若者たちが携帯電話をかかげて、その現場をカメラにおさめる。撮った写真は瞬時に宙を駆け、ネットの巨大掲示板に投稿される。
その中の写真、少しピンぼけの一枚に衝撃を受けた。身体にあわない大きめの、白っぽいジャケットからのぞく右手にナイフを握りしめ、走ってゆく青年。この数分の間に一気に歳を取ってしまったのかと思うほど老けてみえる二十五歳。
次男と同じ歳。ハァハァという息づかい聞こえてきそうに少し口をあけ、内股気味にズックの足を踏みだしている。うしろには秋葉原らしい新型携帯電話の大きなポスター。閉じられたシャッターの前には、訳がわからずバッグをかかえて立っている中年の女性。足もとは横断歩道の白線。どこにでもある日常の風景に、現実とは思えないような彼の姿。目は、視線は、いったい何を見ているのだろう。
この写真を見るたび、私は泣きそうになる。人は、何をどうしたらこんなにも虚ろな顔になるのだろうかと。
過去も、すべての未来も、現在も家族も、そして自分自身も、すべてを見失ってしまった顔。
彼が凶行に走った原因の一片でもさがしだそうと、彼が書いたもの、話したこと、生きてきた環境、それらのすべてを、テレビは思い入れたっぷりのナレーションで、連日連夜映しだす。それでいったい何がわかったか。
仏教は世間の常識と少し違う。
「彼は病気で死んだ」
コレを一般的な「因果」関係でいうと、
『彼は病気(因)で死んだ(果)』
『彼は病気が原因で、その結果
死んでしまった』
ところが、仏教ではここに「縁」という言葉を使ってまったく違う解釈をする。
『彼(因)は、病気(縁)で、死んだ(果)』
なぜ「彼」=「因」なのか?ここが仏教の真骨頂とでもいいたくなるのだが、「彼」は「人」である。人は必ず「死ぬ」。死なない人は人ではない。母親の胎内にいるときからすでに「死」は確約されている。「死」の原因は病気にあるのではなく、生きている我々にもともと備わっていることなのだ。
「彼は遅かれ早かれいつかは死すべき人だった。たまたま病気が縁となり、その結果死んでしまった」
これを知ったとき、私は驚きのあまりブッ飛んでしまった。今まで「原因」だと思っていたものが「縁」(条件とかきっかけとかいう意味)だったなんて!
秋葉原の事件は、家庭環境やゲームや派遣社員のシステムや彼女がいないことや孤独なことが、凶行の原因だったのか。それは彼のなかに堆積していった「縁」だったのではないか。本当の「因」は、すべての人のなかにある、大なり小なり誰もが持っている「苦しみ」だったのか。彼はそれが自分にしかないと勘違いしたのか。みんな同じだ、それでも生きている、ということに彼が気づけなかったからか…。
トラウマ的母の遺訓 2014年12月20日号
36文の12号文
クシャミがたてつづけに三回でた。おっ、誰かにほれられてるな……。
「いちほめられて、にざんぞ、さんほれられて、よかぜひく」
子供のときからクシャミがでると、呪文のごとくこの言葉が頭に浮かぶ。
クシャミが一回でると、誰かに褒められている。二回でると、「ざんぞ」、おそらく「讒訴(ざんそ)」のことだと思うが、誰かにありもしない悪口をいわれている。三回でると、誰かに惚れられている。四回でると、風邪をひく。
だから私のクシャミはたいてい一回か三回。まぁ、まれに二回でて、ムリヤリ三回にしようとしてもならないこともあるが。こんなトラウマになりかねないことを、母は幼い私に話してくれた。
「ばかばったり、じょうそろり、げげのげのじはあけてそのまま」
これは障子の閉め方である。バカは力まかせにバタンと閉め、上等?上品?な人は静かに閉め、下品?一番ダメな人?は開けたまま閉めない。
たまさか、障子を閉め忘れると、おっ、げげのげのじだと思ったりする。
「しきいはおとうさんのあたまとおなじ」
敷居をふむのは父親の頭をふむのと同じこと。だから敷居をふんではいけないのだ。
なぜ敷居をふんではいけないのか、そこいらへんは確認しなかったが、いまだに私は敷居をふまない。玄関の黒い石でできた敷居に靴あとがついていると、あぁあ、お父さんの頭に……、と思ってしまう。
「おひつのしゃもじをねぶると、およめにいけない」
しゃもじにくっついているご飯粒をそのままなめたなら、お前はきっと結婚できない。
つまり、行儀を悪くすると、お嫁に行けない、ということなのだろう。これは母の声が聞こえるような気がしつつも、だれもいないところでよくやる。もっとも結婚してからだが。
「するめをたべたて、みずをのむとおなかがはれつする」
ストーブであぶったスルメが好きだった。醤油とマヨネーズをつけるともっと大好きだった。するとどうしてものどが渇く。水をゴクゴク飲んでいると、いつも母にいわれた。ほらっ、おなかがモレモレッと膨らんできたよ!と。
いまでもスルメのあとの水は控えめにしている。
「お浄土というところは暑くもなく寒くもなく、気持ちのいい風がソヨソヨと吹いて、あれを食べたいなと思っただけで、どこからともなく、ホワッと目の前にでてくるの」
これは幼い私にとって、かなりなショックだった。うす暗い古い台所の片隅で、天井を見すえて食べ物を思い描き続けたがなんの効果もなかった。当然だが。
台所で食事の支度をしているとき、古い着物を洗い張りしているとき、編み物をしているとき、母からいろんな話を聞いた。スイカの種を飲んでしまうと、おなかの中で芽が出るよ。ブドウの種を飲んでしまうと……。
母が亡くなって、もう何年たったろうか。
ひとりごと 2014年12月13日号
36文の11号文
ボクはオスネコ。年齢不詳。だいたい八ヶ月ぐらい。
名前は「もんた」。
この名前、ここの家の住人は「おにいちゃんが名付けてくれた」というが、あの体がデカくて態度もやたら大きいヤツがボクの「おにいちゃん」なのか?ボクはあいつの弟なのか?ウソだろ。あとは「お父さんのいうことを聞きなさい!」といつも怒る腹の出たヤツもいるが、あれがボクの「お父さん」なのか?ふ〜ん、ちっともボクに似てないが。
それともう一人、ご飯だけはちゃんとくれるが、いつも「コラーッ!」と金切り声をあげながら、ボクを追いかけ回すオバさんもいる。あれは一体なんなのだ?来る人来る人に、雨の夜、出窓の下でミャーミャー鳴いていたと、耳にタコができるぐらい同じ話しているが、そんなこと、ボクは全然おぼえちゃいない。そして話の最後にかならず「ネコの恩返し、期待してるわよ」だって。知るかい、そんなこと。
ネコは気まぐれというけど、ボクの観察によると、気まぐれ度は人間の方がウワテだと思う。
中庭に出て、走り回っていると、オバさんはニコニコして見ている。土塀によじ登ったってニコニコして見ている。ところが家のなかで柱によじ登ったとたん、金切り声。ボロボロのカーテンを天井近くまで登りきると、まぁ、すごい!って、ほめられるのに、障子の最上段まで登ると、金切り声とともに鉄拳までもが飛んでくる。どこに違いがあるんだよ、まったく。ボクは高いところが好きなんだ。高いところに登っているだけなのに…。ほんとに人間って訳がわからない。
ボクだってたまには一人で、窓の外をシンミリと見ていたいこともあるさ。そんなときに限って、「こっちおいで」とか、「遊ぼ」とか、うるさいったらありゃしない。かと思えば、オバさんたちがバタバタ動き回っているとき、面白そうだからボクも参加したいのに「ネコの手、不用!」とかいって邪険に蹴飛ばされちゃうもんな。ほんと、人間って扱いにくい。
葬儀や法事とかいうものがあるとき、ボクはかならず二階の部屋に押込められる。トイレとご飯茶碗をあてがわれて。どんなに鳴いてもドアを開けてくれない。ムカつくからトイレの猫砂を蹴散らしてやったぜ。あとはフテ寝をするだけだ。「お寺のネコの宿命さ」と、オバさんはいうけど、勝手にボクの宿命とやらを決めないでほしい!
「犬は『この家の人たちは餌をくれるし、愛してくれるし、気持ちのいいすみかを提供してくれるし、可愛がってくれるし、よく世話をしてくれる…。この家の人たちはきっと神様に違いない』って思うんだって。一方ネコは『この家の人たちは餌をくれるし、愛してくれるし…(以下省略)自分はきっと神様に違いない』って思うんだって。ネットに書いてあったわ」
そうオバさんがいっていた。
いつも「バカ、バカ」といわれ続けてきたボクは神様か…。大きい目で人間をジッと見ているとき、ボクは神様の目で人間を見ているんだな。
自分にいたるまでの先祖の数をご存じだろうか? 2014年12月7日号
36文の10号文
自分にいたるまでの先祖の数をご存じだろうか?
縄文、弥生の昔から数えておよそ15,000年、一世代25年として約四百代にわたる先祖がいる。単純なのべ人数で、二十七代前は1億3,421万7,728人、三十五代前はなんと343億5,973万8,368人。これらの人々のうち誰か一人でも欠けると今の「私」は存在しない。このかけがえのない「命のリレー」を大切にしましょう。と、小学校の道徳の授業でやっているらしい。
もっとも、のべ人数の単純計算も少しばかり問題がある。三十五代前で約340億人、あとは代をさかのぼるたびに天文学的な数字となる。地球上の人口は当然のことながらさほど多くはない。二十七代前で先祖の数は1億3,400万人。今から800年から900年前。時代は平安から鎌倉。当時の日本の総人口はたったの700万人から800万人ほどだったらしい。
これはどういうことかというと、我々の先祖がどこかで共通しているということ。後々多数の一族を成すといえども、元々はひと組の夫婦から始まる。究極のところ原始人、猿人をふくめ人類はたったひと組の男女から始まったということになる。いや、まったくワケがわからない。
昨今「家系図」というものがはやっているらしい。新聞やインターネットの広告を見ると、額装や巻物、和綴じの本、さまざまなものがある。依頼主が生まれる前までの戸籍謄本を取り寄せ、数ヶ月かけて作りあげるらしいが、記録が残っているのはせいぜい五、六代前まで。年数にして200年以内、人数にして4、50人のものだろう。その程度でも自分のルーツを知りたいという気持ちはわからなくもない。
だが、三十五代前でのべ340億人、実数はもっと少ないだろうが、それでも数百万人の複雑にからみあった先祖たちが存在する。そこにどうやって自分のルーツをみつけることができるというのだろうか?
実家の父によるとウチの先祖は平家の落武者らしい(笑)。なにをかくそう私は桓武平氏の血を引くモノなのだ…、そう自慢気に語る人たちも多いが、歴史の長い旧家、名家であればあるほど、生き抜くにはそれなりの闘いがあったのは当然のこと。
とりわけ鎌倉、戦国時代、一族や家を守るため、いかに多くの血を流してきたことか。それがあったからこそ今の自分も存在しているのである。美しい金襴の布に表具された華麗な家系図一巻、裏を返せば生殺与奪、血塗られた歴史がそこにあるといったら言い過ぎだろうか。
なにしろ三十五代前でのべ340億人のご先祖様。強盗、追いはぎはもちろん、人の命を奪った先祖も一人や二人ではあるまい。たまたま五、六代前の先祖にそういう人がいなかっただけ。おまけにどこかで先祖が共通しているとしたら、高名な学者や稀代の犯罪者ともどこかで血が繋がっているのかもしれない。そう、340億人の「業(ごう)」を一身にあつめた「私」が今ここにいる。
気をつけよう!ウィンカーのみぎひだり 2014年11月29日号
36文の9号文
私の前を「紅葉マーク」のついた車が、ゆっくり、ゆっくり走っている……。
カーブで曲がるたび、対向車が来るたびにブレーキを踏むので、速度はなおさら遅くなって、自転車、いや、歩く速度とほぼ同じになってゆく。
「まっ、仕方ないっか……、歩くよりは車の方が楽だもんな」
紅葉マーク(高齢者運転標識)のついた車が前を走っているときは、『明日は我が身』ということで、ジタバタしないことにしている。一体どんな人が運転しているのだろうと、運転席をすかして見ると、シートにかくれて、その姿はほとんど見えない。わずかに、チロリアンハット風の帽子のつばがのぞいているだけ。きっと小柄なジィちゃんなのだろう。
トロトロ走って、もうすぐ二車線に分かれるところまで来た。左側はそのままの直線走行、右側は右折専用車線。前を走っていたジィちゃんは左側にウィンカーをだした。
「左側? ひだりがわ?」
左側に車線はない。ただ、左側にはピザ屋さん、某政党支部事務所などが並んでいるから、ハイカラなジィちゃんはきっと、ピザ屋さんに寄るのだろうと、推測する。ところがジィちゃんはピザ屋さんの前をゆっくり通り過ぎる。
「ふむ、某政党事務所に入るのか。きっと某政党支持者なんだろうな」
そう勝手に推測する。ところが、ところが……!。
ジィちゃん、左にウィンカーをだしたまま、右の右折車線に入ってしまったのだ。
「え、え、えぇーっ? なに?」
運転する人は、前の車が左側にウィンカーをだすと、当然のこととして左側に曲がるのだなと思う。それを見事なまでに裏切られた(?)ときの衝撃はかなり大きい。衝撃というより狼狽といった方がいいのか。左側にウィンカーをだして、右側にスーッと寄っていくジィちゃんの車。幸い、右折車線に車が一台もいなかったからよかったものの、追突事故になってもおかしくない状況だった。
右折車線で左側にウィンカーをだしながら、右側に曲がろうと静かに待っているジィちゃんの車。そのブキミさ(?)に、後続車である私はどう対応したらいいものか……。
あのジィちゃん、左側にウィンカーをだしていることにハタと気づいて、急に私の前に出てくるかもしれない。私はジィちゃんの車に細心の注意をはらい、ゆっくりソロソロ、ジィちゃんの車の横を通り抜ける。バックミラーを見ると、私の後続車も狼狽を隠しきれぬように、ゆっくりソロソロ走ってくる。通り過ぎるとき、ジィちゃんの横顔が見えた。運転席にうずまるような小さなジィちゃんは、ごく普通の表情で右折するチャンスをうかがっている。ただし、左側にウィンカーをだしながら。
あのジィちゃんは無事、目的地にたどり着いただろうか? ウィンカーを左右まちがえてだすようになったら、頼むから、運転はやめた方がいいよ。今でもマジにそう思う。
怒らない・怒りたい・怒る・怒れば・怒るとき 2014年11月19日号
36文の8号文
とあるホームページ。「日記」が毎日更新されている。
それで、こちらもつられて、毎日のぞいてしまうが、このホームページの「日記」、いつもいつも怒っているのだ。政治のことにしろ、NHKの問題にしろ、差別の問題にしろ、研修会の講師の話にしろ、連れ合いのことにしろ、子供のことにしろ、ついには子供の友人のことにしろ、よくもこれだけ怒ることがあるものだと思うぐらい、怒っているのだ。その怒り方が千差万別なので、こちらも「さて、今日はなにを怒っているのかなぁ」と、楽しみにしてしまう。
その「日記」を読み続けて約一年、その「怒り方」にいくつかの傾向があることに気がついた。第一、そのときどきの事件、事故、天災について怒る。そしてその諸機関の対応について怒る。第二、他の考え方が、自分の考え方とちがうときに怒る。第三、自分の思いが通じない、あるいは自分の思い通りにならないときに怒る。第四、怒る対象に自分自身がはいっていない。自分だけは一段上に立っている……と、ここまで分析して、またまたあることに気がついた。「えっ? これって私の怒り方とすっかりおんなじじゃん?」
「法蔵の願心とは、怒りをあらわす心である。(中略)今日、宗教を語り、信心を学ぶ人は多い。しかし、そこに怒りもて、まことを求める人は少ない。法蔵の願心は、もと純粋な憤怒(ふんぬ)の言葉ではなかろうか」
藤元正樹『仏の名のもとに』
むずかしくてイマイチよくわからないが、仏の、衆生(しゅじょう)を救わんとする願いの根っこには、「憤怒」つまり「怒り」があるということらしい。もちろん、仏の「怒り」は、私が毎度のことに感情的にムカッとして、怒ったりキレたりすることと、まったく次元も規模もちがうのだ。ちなみに、「類語辞典」で「怒り」という項目を引いてみると、憤(いきどお)る・逆上する・ぷっつんする・ 鶏冠(とさか)に来る(これなど死語に近いが)・気色(けしき)ばむ・かんかん・烈火の如く……等々、実に二百四十個以上の同類語がある。
私の怒りのほとんどは、「自分は絶対に正しい、まちがえるはずがない」という前提のもと、あらん限りの言葉や態度の総動員で、相手が誰だろうとなんだろうとまったくかまわず、おのれ自身をたて、まもることに必死なのだ。もうこうなると、八つ当たり状態。自分を棚上げにした怒りは、とどまることを知らないようだ。
仏の「純粋な憤怒」とは、そんな「私」を悲しみ、嘆き、
「コラ〜ッ、なんぼいったらわかるんじゃ!いいかげん気がつかんかい、この愚か者!!」
と、全人類にむかって投げかけられる。
「気づく」ことから「ほんとうの怒り」がはじまるのかもしれない。とりあえず、私の愚かさに気づくことからはじめよう。そうすると、他人のことなんかかまっていられないかもしれない。自分に腹が立ってどうしようもなくなるかもしれない。でも、それが一番イヤなことなのだが。
法名 2014年11月12日号
36文の7号文
ある人がいった。
「奥さんは、法名(ほうみょう)が決まっているんですか?」
「いいえ、まだ……」
「そのままでもいいんじゃないですか」
「へぇ、『釈・由美子』?」
「はい、『釈・由美子』……」
そこで私はようやくわかった。釈由美子とは、今をときめく女優なのである。最近では「スカイハイ」という映画が、テレビでずいぶん宣伝されていた。画面の中からこっちを指差して、「お生きなさい!」
という女優なのだ。
なるほど、釈由美子、いいかもしれない。
「無等(むとう)」という名前の方がおられるが、昔、その方と同席したことがある。何も知らない私は、無礼にも、こう質問をした。
「無等というお名前は、『無ニ等シイ』ということですか?」
「いいえ、『等シキモノ無シ』という意味です」
その方はイヤな顔もせず、そうおっしゃってくださったが、実は、「無ニ等シイ」と「等シキモノナシ」では天と地ほどの差があったのだ。
「等シキモノ無シ」とは、仏を讃えるいくつかの言葉のひとつなのだそうだ。他の追随を許さない(?)、肩を並べるモノのない(?)、といったような意味らしい。だから、「無等」とは仏そのものをさすのかもしれない。それを、仏教的知識が皆無の私は、「無ニ等シイ」と、そのまんま読んだのである。何十年もあとになって、私はひとり赤面したのだった。
お寺の住職並びに跡継ぎは、ほとんど、名前をそのまま法名としている。ウチの場合は、宣成がそのまま「釈宣成」となる。長男は尋成(じんじょう)というが、それは「釈尋成」。二男は拓哉。彼が生まれたとき、両親は必死になって考えたのだが、考えたわりにはごくフツーの名前になってしまった。「釈拓哉(たくさい)」ではどうにも収まりがつかない。つまり、いまにして思えば、両親の心の片隅には、長男は寺を継ぎ、法名にふさわしい名前を、といったような思いがぬきがたくあったようだ。そんな両親のたくらみを知ってか知らずか、長男が寺を継ぐかどうかは、まったくもっていまだ不明。
寺に生まれた人の名前は、すぐにわかる。パッとみて、スッと読めないからだ。寺に住む親たちは、子供が生まれると、ふだんは読みもしない経典をひろげ、天眼鏡で漢和辞典をひっくり返す。思いはひとつ。僧侶にふさわしい名前、法名にふさわしい名前。そしてそれが跡を継ぐべく長男であればなおさらなのである。私の親類縁者、男性のほとんどが辞書なくしては読めないような、あるいは説明しなければ理解できないような名前ばかりだ。だが、その反動からか、女性の名前はものすごく平凡なモノが多い。たとえば、「由美子」のように。
で、釈由美子さんのおかげで、私も「釈由美子」でいいかも。
映画では、あの世とこの世をつなぐ「怨みの門」の門番なんだそうだ、彼女は。ということは寺とそんなに関係なくもない?
「お生きなさい!」
あなたを指差し、私もひと言、いってみたいものだなあ。
未練 2014年11月5日号
36文の6号文
近所のさびれた商店街の一画に、洋服屋さんがある。昔はスーパーだったから、二階まである。寝具、子供服、雑貨まで売っていて、とても重宝していた。息子たちが小さい頃の服は、ほとんどここで買った。私の着ているものも八割はここで買ったものだ。ブラブラとぶら下がった洋服のなかから、自分の好みにあった一枚をみつけ、しかもその値札が四千九百円を消して、千二百円なんかになっていると、もう、快感である。
いつものように、その日も私は「五百円均一」というスカーフの山を掘り起こしていた。おばさんが二人店に入ってくる。おばさんたちは入り口にあるカゴを持ち上げ、さぁ、買うぞ!とばかり大股で入ってくる。それぞれにブラウスを胸に当て、鏡にうつし、首をかしげてちょっと思案し、買い物カゴにぽんと放り込む。たまに二人は一カ所に集合し、なにやら相談してまた買い物カゴに放り込む。
私は彼女たちが来る前、一枚のスカートに目をつけていた。エンジ色の柔らかな生地で、着心地よさそう。値段も二千九百円、妥当なところである。彼女たちが手当たり次第買い物カゴに放り込むのをみて、少しばかり不安になったが、タカをくくっていた。なぜなら、サイズが彼女たちには絶対無理だからだ。けっこう太めのおばさんたちなのである。私でも長めのスカートは、あのおばさんたちでは引きずるかもしれない。
だが、おばさんのひとりが、あのスカートに近づく。スカートを手に取ってみている。私は横目だけで彼女の動きを追う。彼女はしばし動きを止め、そののちスカートをもとにもどした。ああ、大丈夫だった。おばさんたちは婦人服のコーナーを終わり、下着のコーナーへと移っていった。私は安心してまた、スカーフの山を掘りはじめる。いま思うと、このときすぐにあのスカートを買えばよかったのだ。私はスカーフに固執していた。
さっきのおばさんがカゴをさげてもどってきた。スカートを手に鏡の前へ立つ。私は横目ではなく、顔を向けてみていた。スカートをおなかにあてて、ポーズをとる。やっぱ、無理だよ、おばさん! 私は心のなかで叫ぶ。
ところが彼女は、スカートのウェスト部分を上から十センチほど折って、またおなかにあてる。右をうつし、左をうつし、彼女はひとつうなずいて、スカートをカゴに放り込んだ。スカートのウェスト部分をはずし、余裕のある腰の部分にゴムひもを通すように加工すれば、じゅうぶんにはけるのだ。その手があったのか…。私はスカーフの山の前で、ボウ然とおばさんの後ろ姿を見送っていた。
この店はいま、「閉店セール」をしている。立ち退かなければならないそうだ。この店がなくなると、私はどこで洋服を買えばいいのだろう。私の洋服、残り二割を買っていたスーパーも、会社更生法の適用を受け、洋服売り場が撤退してしまった。いよいよ私は洋服を買えなくなってしまうのだ。
このセーターにあのエンジ色のスカート、似合ってたのに…、いまでも未練タラタラなのである。
国道45号線 2014年10月29日号
36文の5号文
三陸沿岸、国道45号線を宮古から陸前高田まで南下した。
息子たちがハイハイをするあたりから、ひと夏に一度は三陸の海に行っていた。
45号線には大きな標識が立てられている。道が下り坂になってくると
「津波浸水区域・ここから」
登り坂の山道にかかってくると
「津波浸水区域・ここまで」。
「ここから」の表示を過ぎると胸が高鳴って少し緊張する。
道ばたの木々がとぎれた平地に出ると風景が一変した。新婚間もない頃に泊まったシーサイドホテルは面影もない。家族四人ではとうてい食べきれない巨大な舟盛りがでてきた旅館は一階、二階部分がベニヤ板。唐揚げやおにぎりやお菓子を買った堤防のすぐ下のスーパー、屋根が残っている。何度か食事をしたレストラン。窓から鏡のように穏やかな山田湾が見えていた。今はその窓枠だけが残っている。
車のアンテナに小さな鯉のぼりをくくりつけて走っていたずっと昔の四十五号線はもうない。
「ここから」「ここまで」を何度かくり返し、やってきた大槌、浪板海岸。名前の通り穏やかな波で遠浅の海岸は、子供達を遊ばせるのに最適だった。45号線から少し坂道を下って、右側にはホテル、左側にはキャンプ場のある松林。砂利をしいた駐車場の脇には浮き輪やスイカ模様のビーチボールを売っている売店。ホテルに泊まることもあれば、車の中で水着に着がえることもあった。松林とホテルの間を通り抜けると、防波堤。
小さい長男は浮き輪を持って防波堤の階段をかけ降りる。私はまだオムツをした次男を右手でかかえ、左手には食料の袋。連れ合いはシートやクーラーボックスを持って階段を慎重に降りる。防波堤のうしろには、決しておいしいとはいえない焼きそばやソーセージの屋台。でもなぜか、おいしく感じた。
オムツをモコモコさせていた次男は、「キャァー、可愛い!」
若い女の子に人気があった。今はその片鱗もなくした彼は、その人生の絶頂期だったかもしれない。美しく楽しい海岸だった。
地盤沈下のせいか、砂浜は消滅。防波堤に直接波が打ちつける。松林は土がさらわれ、根がむき出しになっている。トイレやシャワー室があった建物はコンクリートの要塞のよう。ホテルは四階まで暗い穴だ。一階の厨房らしきところに集められた蟹の形をした一人用の鍋。積み上げられた泥だらけの食器類。悲しみが集められ、積み上げられているみたいだ。
陸前高田は街に入る前から砂ぼこりでうすくけむっている。遠くからでも見える何本ものクレーン。そしてがれきの黒々とした山。唯一の目印は幾度か泊まったホテルの建物だけ。四十五号線の内側は荒野。家々の土台とそれを隠す雑草。
だれもいない。なにもない。あるのは直接吹きつける砂まじりの海風とその音。供えられた花とペットボトルのコーラ。すべてをのみ込んだ虚空に言葉をなくし、ただ立ち尽くす私たちの影法師。
真宗切り捨て派 2014年10月22日号
36文の4号文
おぼえておられる方は皆無,といっていいだろうが,十年数年前,「真宗切り張り派」なる一派を開いた某寺住職がいた。発端は,おもしろい文字や絵を切り抜き,張りつけた年賀状であったが,某寺住職はそこだけにとどまらなかった。他人様の言説を切り取り,組みかえ、あたかも自分の新説であるがごとく説法し、踏み込んではならぬ領域にまで達してしまったのだ。そして、某寺住職は高らかに宣言したのである。
「我はついに真宗の新しき一派を開くにいたった。名づけて『真宗切り張り派』である。我は切り張りをもって、新しき真宗の礎とならん!」
時は流れた。
十二月一日から家庭のゴミは焼却炉で燃やせなくなってしまった。寺はまことに困るのである。秋の落ち葉はもちろんのこと,お墓掃除にでる大量のゴミ,これらがすべて燃やせなくなってしまった。そして何より困るのが,寺務室からでる紙クズである。
毎日届けられるダイレクトメール,カタログ,不必要になった書類,手紙類、のし袋。今までは週に一度,焼却炉で燃やすことができたが,今はそれもできない。結局,燃えるゴミの日にビニール袋に詰めてだすのだが,證明寺の「證」の字とか,松見の「松」の字とかが少しでも見えかくれすると,もう,恥ずかしい。ビニール袋をあらゆる角度から仔細に点検し,「さりげないゴミ」にするために,毎回相当なエネルギーを使うのだった。
ある日,某寺住職はこれらの紙を切りきざめばいいことに気がついた。それも,ためてしまってから切るのでは大変なので,不必要な紙がでるとすぐに切りきざむことにしたのである。
「このハサミ,すぐに切れなくなりそう」
「何だかクセになりそうなオモシロさ……」
「こうやって指先を使うと,ボケ防止になるだろうな」
そんなことをひとりでブツブツいいながら,チョキチョキ,ジョキジョキ切りきざむ。故に,某寺住職の椅子の周辺はつねに,パラリと小さな紙クズが落ちているようになった。紙クズは膝の上にも落ちるので,某寺住職が立ち上がり,歩くたびに,パラリ,パラリと紙クズが、あとを慕うように舞ってゆく。
さて、長い時が流れた「真宗切り張り派」は、残念ながら「切り張り派門徒」をひとりとして誕生させることなく、むなしく凋落し,消滅した。だがしかし,某寺住職はハサミとよほどの縁があるとみえて,性懲りもなく,またまた高らかにこう宣言したのである。
「我は、日夜一心不乱に紙を切りきざみつつ,サトリを得たり。ここにいたって、新しき真宗の一派を開かんとす。その名を『真宗切り捨て派』とせん! これより,好きな人はそのままに,嫌いなヤツは切り捨てるぞよ」
その尊き宣言を祝うごとく、あたかも蓮華の花びらのごとく、切りきざんだ紙クズが御開山様にハラハラと降りかかるのだった。
おおい,とうちゃん,大丈夫かぁ?
カモメ 2014年10月15日号
36文の3号文
台風の残していった低気圧が,三陸沖に渦巻いている。これをのがすと、荒れた海にはそうそうお目にかかれない。天気図をにらみ,私たちは昼過ぎになってから海へ向かった。
いつも車を止める高台の道端に,今日はなぜか、カモメがたくさんいる。駐車スペースを占領したカモメたちは,間近に通る私たちの車を避けようともせず,一様に海を見ている。いつもとちがう海の雰囲気に胸がおどった。
狭い山道をくだって浜へ出る。盛り上がった砂浜のむこうに海がある。私たちは砂に足を取られながらもどかしく海をめざす。地響きのような波の音に乱れた呼吸がかき消される。水平線から波打ち際,海は目の前に唐突にひろがり、私はアングリと口をあいて海を見ていた。荒れていた。ほんとうに海は荒れていた。そしておびただしい数のカモメたち!
海はどこを見たらいいのかわからないほど、あちこちにクライマックスがあった。はるかかなたの断崖に波が打ちつけ,遠めにもわかるほどの白いしぶきが立ちあがる。波は泡立ち,煙のようなしぶきを引き連れ砂をたたく。配偶者が投げた石は、あっという間に波にさらわれ,姿を消す。私たちはドッカと砂浜に腰をおろし,右をみ,左をみ,正面をみ,空をみる。
うしろに目をやったとき,私は飛び上がらんばかりに驚いた。カモメが私たちのまわりを取り囲んでいたのだ。私たちを大小の石かなんぞと思っているのだろうか,おびえもせず,気にもかけず,皆そろって海をみている。こんなに近くでカモメをみるのは初めてだ。
鳩のようなせわしさはなく,ゆったりと二本の足で砂を踏みしめ,ガラス玉のような金色の目で,海をみている。荒れた海が静まるのを待っているのだろうか,はやくエサをとりたい,お腹がすいたと,波をみているのだろうか。ときおり,勇気のありそうなカモメが海に向かって飛んでゆく。それでも、ヤッパだめだ、すぐにもどって仲間とささやきあい,また海をみつめる。数羽のカモメは波打ち際までヨチヨチと歩き、波が引いた隙に何かをついばみ,波が返すとあわてて飛び立つ。なかには飛び立つのが間にあわず,波をかぶるカモメもいる。そんなカモメはどことなく恥ずかしそうに、仲間のうしろに舞い降りる。
私たちは海をみつめ,カモメたちも海をみつめる。奇妙な連帯感が浜辺をおおい,私たちは、小さなカモメを従えた大きな親カモメのような気がしてくるのだった。
夕食をしようと張り切っていった港町の寿司屋は,あいにく定休日だった。おいしいものが食べられなくなった配偶者は,めっきり口数が少なくなり、だまってハンドルを握っている。助手席にいる私から配偶者の目は見えない。けれども,エサにありつけず、ジッと海ばかりみつづけていたカモメたちのあの金色の目と、きっと同じような目で、彼は運転席の先の闇をみているにちがいない。私はひとり,笑っていた。
祝?銀婚式 2014年10月9日号
36文の2号文
終わんない
かなしみは
自分しか
みてないから
配偶者と私は、今年銀婚式を迎える。結婚してすでに二十五年、四半世紀にわたって一緒に暮らしてきたことになる。
「ふぇ〜、ウソ〜ッ」
というのが正直な感想で、つらい山河(やまかわ)一緒に越えて夫婦(みょうと)ツバメの二人旅……、といった演歌的な感慨はまったくない。だいたいにおいて、この二十五年間、何をして暮らしてきたのか皆目覚えていないのだ。
毎日毎日、ご飯を食べ続けてきたことだけが記憶にある。二人の子どもも、一応はバカでかく育つには育った。だがこれも、ああ息子、よくぞここまで育ってくれた……、といったな感慨がない。これは何ごともなく二十五年間を過ごした、ということで「幸せなこと」なのだろうか? それとも、何で生きてきたかわからない、ということで、ものすごく「不幸なこと」なのだろうか? ウーン、わからない。
私たち二人は年をとってきたせいか、最近ことのほか、他人(ひと)様のうわさ話を好んでする。うわさ話、というと多少は聞こえがいいが、要するに他人様の悪口である。
「あの人、近頃オカシイよ」
「ウン、ウン、確かにオカシイ」
「えらい自信がでてきたみたいでさ」
「ウン、ウン、確かに自信がでてきた」
「なんか、自分しか見えてないってカンジ?」
「ウン、ウン、まわりが見えてない。自分しか見えてない、確かに……」
このような会話をかわし、人から人へ、他人様のオカシイところをあげつらって、話は果てしなく続いてゆく。
そんなある日、例によって、あの人オカシイ、この人オカシイとしゃべくりあっていた。
「ドイツもコイツもオカシイやつばっかりだなぁ、実際……」
けれどそのとき、二人は同時にあることに気がついた。
世の中にこんなにたくさん「オカシイ人」ばかりいるはずがない。「オカシクナイ」のは
私たちだけだと思いこんでいたが、もしかしたら、「オカシイ人」は、私たちのほうかもしれない!!!
二人は顔を見合わせ、ついに沈黙した。
他人様の「オカシイ」ところをあげつらうのは、自分たちが「オカシクナイ」ことを主張するためである。何の根拠もないのに、自分が正しいということに絶対の自信を持ち、他人様をバサバサと切り捨ててゆく。私たちは二十五年間も一緒にいて、八方ふさがりの「二人の世界」に埋没してしまったのであった。自分を頂点におく限り、私たちの「かなしみ」は死ぬまで分けあってゆかなければならない。ああ、
仲よきことは、美しき、かな?
こんな二人でありますが、今年も何とぞお見捨てなく。もう、他人様のうわさ話はしませんから……。
シンシュウ・ランドへ行こう! 2014年10月1日号
36文の1号文
世の中は「マスコットキャラクター・ブーム」である。
いわゆる「ゆるキャラ」。「ゆるキャラ」とは「ゆるいマスコットキャラクター」の略称で、イベントやキャンペーン、地域・企業・団体の情報・広告に使用するマスコットのこと。ほとんどのものが「着ぐるみ」化されている。「ゆるキャラ」の「ゆるい」がどういう意味なのか、私にはイマイチよくわからないが‥‥。
全国でその数はどれほどになるんだろう?
数年前から「ゆるキャラグランプリ」なるものがあって、今年のエントリー数が1670体。無論、それがすべてではない訳で、実際にはその数倍はあるんだろうな。わが町の駅前商店街や各地方のテレビ局にすら「ゆるキャラ」は存在し、休日になると、そこかしこでユラユラとゆれ動いている。
そしてついに真宗大谷派にも御遠忌前から「ゆるキャラ」が登場してしまった。
写真、右から
「あかほんくん」 (註・勤行本の「赤本」がモデルらしい)
「鸞恩(らんおん)くん」(註・たてがみがあるので、ライオン状のものらしい)
「蓮(れん)ちゃん」 (註・蓮の花をイメージ。三体のなかでは唯一の萌キャラ)
「ブットンくん」 (註・大阪教区限定キャラ)
ちなみに今年の「ゆるキャラグランプリ」にこれらはエントリーしていないらしい。
「ゆるキャラブームが盛り上がる中、伝統を重んじる寺院でも、次々と新しいキャラクターが誕生している。寺関係者は『堅苦しいイメージを和らげたい』と、伝統仏教の若者離れ対策の切り札として期待する。(中略)同派の門徒数は60年前より約80万人少ない約550万人。(中略)『参拝する若者や子どもがどんどん減っている』と危機感を持つ。来年の親鸞聖人750回御遠忌に向けた行事に登場させ、関心を集めたいという」
(2010、5、2 読売新聞より)
仏教からの若者離れに対する危機感より、この「ゆるキャラ」で若者を呼び込もうとする、宗門の感覚にかえって私は危機感をおぼえる。仏教までもがテーマパーク化してしまうのか。
いっそ、あの広大な真宗本廟にディズニーランド並のアトラクション施設を作ればいい。「浄土をめざせ!巨大迷路・人生」
「人間の本質を知ろう!体験館・六道輪廻めぐり」
「絶頂期から奈落の底・有頂天ジェットコースター」
「仏様が飛び出す!3Dシアター・曼荼羅」
「センターは誰だ!MDH48(ミダノホンガン48ガン)本日総選挙開催!!」……
そう、間違いなく若いカップルがたくさん来る。
「若者の仏教離れ」ではなく、「仏教の若者離れ」なのさ。今さら「ゆるキャラ」で若者を釣ろうとしても、そうはいかない。仏教がその本質から離れている。
「仏教の仏教離れ」‥‥。